夏火花
1,
「私、結婚する」
待ち合わせたバス停で、セーラーのスカートを翻しながらバスから降りてきた鈴木碧海
(あおみ)がそう宣言したのは、六月七日。彼女の誕生日の一ヶ月前のことだった。
鈴木碧海。十七才。
セーラーの紺襟に届くくらいの少しはねた黒髪を風に遊ばせ、濃いチャコールグレイの目をしっかり見開いて宣言した。
「……は?」
もちろん僕が面食らったのは言うまでもない。
瞬きを三回ほどする間に、碧海はさっさと背中を向けて、駅ビルに向かって歩き出す。
背筋が伸びていて、きれいだ。
そういえば今日は碧海の買い物に付き合う日だったと、ようやく正常な思考回路が機能しだした。
「それってどういう意味?何かの例え?」
「そのまんまだよ。百歩譲って婚約でもいいけど」
冷静に考えてみれば、碧海の奇矯な言動は、今に始まったことではない。
昔から、人一倍わがままで甘ったれで気分屋で、よく困らされた。
でも、僕が悲しいと自分も悲しいと、本気で言ってくれたのは碧海だった。
「どうしていきなり?」
「来月、十八才になったら結婚できるでしょ」
まるで軽い。
「あ、そう」
確か女性が結婚できるのは十六才からじゃなかったかと思ったが、あえて深く突っ込むことはやめた。
どうせ一時の気まぐれに違いない。いつものことだ。
「私、本気なんだよ?」
しかし突然、僕の思考を読みとったかのように、碧海が言った。ただ、さっきの宣言のような強さはなかった。
下をうつむき、深緑のスカーフを指でいじりながら、ぽつりともたらされた言葉だった。
「碧海……」
手を伸ばそうかと考えて、やめてしまう。
「さ、買い物行こ。今日はいっぱい買うからね。蒼海(あおみ)の服も見てあげる」
顔を上げた碧海は、五秒前とは別人のような明るい笑顔でそう言った。
今日はとても暑い。
佐藤蒼海。それが、両親が僕に付けてくれた名前だ。
鈴木碧海とは、対になっている。
僕の母である佐藤春海と、碧海の母である鈴木夏海は学生の頃からの親友で、ダイビング友達でもある。
二人は本当に仲良しで、現在、佐藤家と鈴木家は隣同士に家を構え、何の因果か、僕らが生まれた日も同じ、七月七日。その上に名前まで、蒼海と碧海。
僕ら二人は、生まれながらの幼なじみである。
碧海は幼稚園のころから私立のエスカレータ校にバスで通っているし、僕は地元の公立校だから、共通の友達もほとんどいない。
しかし、隣同士であるということ以上に、僕らは決して疎遠になることはせず、二週間に一度くらいはこうして一緒に遊びに行く。
それでも思春期に入ってすぐ、友達が女の子と混じって遊ぶことをやめだした頃には、僕も正直戸惑っていた。
男だけではなく、女の子の方も「男ってキライ」などと今考えればよく分からない理屈を持ち出して、男女間に溝ができた時期である。僕も「女なんて」などと言いながら格好を付けていたつもりだったのに、碧海だけは相変わらず僕といた。
『何でおまえ、女なのに僕といるわけ?』
心なくもそう問うと、まだ小学生だった碧海は少しも考えることなく即答した。
『だって、蒼海と一緒にいるのが一番楽しい』
迷いのない視線を向けられたのを、今でも覚えている。
そのときも、碧海の髪は肩に届くくらいで切りそろえられていた。
一緒に買い物に行くといっても、碧海は僕のことを放って、どんどん先に歩いていく。
今は背中を向けて、五百円均一の花火セットのかごを覗き込んでいた。
「蒼海、花火買おっか」
追いつくと、振り返ることもなく碧海が話しかけてくる。見なくても分かるのだろう。
「花火?いいけど」
「線香花火ばっかりの。これにしよう」
碧海が手に取った、安っぽいビニルのパッケージには、細い線香花火だけが、何十本と詰められていた。
何故だか息苦しそうだと思う。
「線香花火ばっかり?つまらなくないか、それ。もっと、ばちばち火の出るやつがあるだろ」
やだ、と碧海が口の中だけで呟いた。
「火がいっぱい出るのは、怖いからいやだよ」
結婚は本気だと言ったのと同じ顔で言う。
「碧海、さっきのことだけど」
「なに?」
「誰か結婚したい相手がいるとか」
「いないよ」
「じゃあ、」
「相手はこれから探すんだ」
僕も線香花火を手に取った。
「きっと良い人がいるよ」
碧海とは、ずっと昔から一緒で、二人でいるのが当たり前だと思っていた。いつか大人になって、碧海が結婚して僕も結婚したら、今までと同じようにはいかないかもしれない、そんな当たり前のことに気付かなかった。
半袖からすらりと伸びた細い腕、碧海は手首に回した腕時計をいじっている。
デジタル時計は無機質でいやだと、いつもアナログの時計ばかりしていた。
これは、去年の誕生日に僕があげた時計だ。
碧海が持っている他の時計に比べれば、ずっと安っぽいし、実際安い。
その時計が、決して静かではない駅ビルのデパートで、それでも自分の存在を主張するかのように小さくカチカチと音を立てている。耳障りだと思った。
時が経ったら、みんな変わってしまうんだろうか。
2,
僕は次の日も、バス停で碧海を待っていた。
待ち合わせはしていない。ただ決心したことを伝えたかった。
予定時刻になってもバスは来ない。
緊張のせいか、無意識に時刻表を睨んでいたらしい。通りかかった小学生の女の子が、走って通り過ぎた。
溜息をついても多分何も変わらない。
ようやくバスが来たのは予定時刻の三分後、たったの三分なのに、僕にとってのそれは何時間にも等しかった。
バスのドアがゆっくりと開き、軽やかに降りてきた碧海と目が合う。
「結婚しよう」
「――――、」
すぐに返ってきた碧海の返事は、バスの出発する音にかき消された。
それなのに僕は、聞き返すことができなかった。できない。
「蒼海、向こうに行こ」
鞄を持っていない方の手で、碧海はバス停に隣接された公園の赤いベンチを指さして歩き出す。
まぶしいくらい、赤いベンチだった。
「私、蒼海とは結婚できない」
できない。
唐突に見上げられ、宣言される。昨日と同じだった。
「なんで……っ」
「とりあえず、今のところ。日本では」
「はい?」
全く意味が分からない。
「だって戸籍上は男だから、私」
思考が停止した。文字通り。
驚きの余りその場にへたりこんだ僕を、碧海はベンチまで引きずっていき、熱い缶コーヒーを買ってきてくれた。
「そんなに驚くとは思わなかったな」
いつもの調子でぽつりと言う。でも僕は下を向いていたせいで、碧海の表情までは見えなかった。
僕はまだ何も言えないでいる。
十七年間、男だなどとは微塵も考えなかった幼なじみに突然、実は男だと告白されたのだ。
「でもね、一番最初にカミングアウトするなら相手は蒼海だって、昔から決めてた。ちょっと意味違うけど」
声だけを聞く。僕はまだ顔を上げられないでいる。
「ずっと、女装してたってことか」
ようやく出た声は、喉に引っかかって痛かった。
「女装じゃないよ。自分のこと、女だと思ってたし、今でも思ってる」
碧海の声は穏やかだった。
「性同一性障害、ってことか」
セイドーイツセイショーガイ、と宇宙語のように聞こえる単語を発音すると、突然肩をつかまれ、碧海と真っ直ぐに目が合う。
碧海は眉をひそめ、真剣な顔で唇を噛んでいた。
「なんで障害って言うんだろうね。医学的に治療が必要だから?」
それでも碧海の声はとても穏やかだった。
「だって、」
現実として認識できない。
「セクシュアル・マイノリティって、アブノーマル?病気だからとか言って、同情したり偏見を持ったりするの?」
決して激しくはない碧海の言葉に、僕は何も応えられない。
「私のはね、自分ではトランスジェンダー、って認識してる」
肩に置かれた手が離れていく。
気がつくと、手が置かれていた部分がひどく熱かった。
「身体的には手術して女になろうとは思わないけど、一個の人間としては女でありたい。おかしい?」
分からなかった。でも、おかしいとは思わない。
「私にとっては、何もおかしくなんかないんだよ。私は、自分が女であることを絶対に否定したりしない。だってそれは、」
碧海は、それまでの真剣な表情から一転して、雪がとけるような笑顔になった。
「私が鈴木碧海であることを、自分が生まれてきたことを否定するのと、同じことだもの」
だから同情なんてしないで。
「碧海、」
僕は何を言えばいいのだろうか。
「一気に話してごめんね。混乱させちゃったね」
それ以上何も言わず、碧海は僕に背を向けて歩き出す。セーラーのスカートが翻るのを、僕はただ見ていた。
僕は追わなかった。追えなかったのだ。
ぬるい雨が降り出す。
遠くの方で碧海が、水色の傘をさすのが見えた。
雨の粒が目に入ってくる。
碧海は振り返らなかった。
3,
それからちょうど一ヶ月間、碧海とは会っていない。こんなに会わないで、連絡もしないことなど初めてだった。
七月七日。僕と碧海の誕生日。
一ヶ月前に比べると、僕の気持ちにも整理がついていた。
もう混乱してはいないし、碧海が言っていたことについても、だいぶ消化していた。
最初の一週間は呆然としたまま時を過ごしたが、その後は必死だった。
このままでは碧海が離れていってしまう、と焦る気持ちが芽生えていた。
誰よりも強く、自信過剰のくせに、ひどく脆い。碧海を失う未来を想うのは、何より怖い。
自己満足だと言われても、僕はたくさんの本を片っ端から読んだ。
碧海のような人について、肯定的なものから、否定的なものまで。
何かが欲しかった。
携帯電話を握りしめ、僕は一ヶ月前、碧海のバスを待っていたときよりも緊張している。
こんなに緊張したのは、生まれて初めてだ。
とうとうかけてしまった電話を耳に強く押し当てた。
「もしもし、蒼海?」
三回目のコールで出たその声は、いつもの碧海と同じ声で、僕は力が抜けて壁にもたれる。
「うん、」
「どうしたの?」
「……謝ろうと思って」
「なんで?蒼海が謝ることなんて何もないよ。蒼海にさえずっと黙ってたの私だし、そういうの、ふっきれてるから」
「違うんだ。謝りたいのは、あのとき何も言えなくて、」
くすくすと、碧海の笑い声が聞こえた。
「そんなの気にしてないよ。なんせ蒼海とは一番長い付き合いだもの」
「でも僕は……」
「ねぇ、」
碧海が突然大きな声を出す。
「え?」
「日が欠けたら、うちの庭においでよ。待ってる」
電話が切られた。電子音だけが鼓膜に響く。
天の川が流れている。
おそるおそる玄関を出ると、隣の庭から、七夕の歌が聞こえてきた。碧海の声だった。
ちょっと低めの優しい声が、へたくそに歌っている。
なんて、下手なんだろう。
一瞬目の奥がつんとして、涙腺にまで伝わりそうなのを、必死にこらえた。
碧海は庭にしゃがみ込み、プラスチックのバケツに映った天の川を見て歌っている。
明るい紺の浴衣を着ていたが、肩まであった髪がばっさり切られて、耳が出ていた。
「あ、来た来た。蒼海、西瓜食べる?」
母さん西瓜持ってきて、と縁側から家の中に向かって碧海が叫ぶと、遠くで返事が聞こえた。
「碧海、髪……」
選んできた言葉も全て忘れて、ぽかんと口を開けたままになってしまう。
碧海のショートカットなんて初めて見た。
「髪?暑かったから切った」
けろりと言い放ち、固まったままの僕を置いて、碧海は線香花火のパッケージをくしゃくしゃに破いて丸める。
きっとあの中に、今までの緊張感が全部入っている。
「はい、火つけて」
線香花火を右手に持って構えた碧海に、ライタを渡される。
火を付けてやると、小さな火花が静かに散りだし、ようやく言葉を思い出した。
「碧海、結婚のことだけど。ヨーロッパやアメリカならできるんだろう?」
碧海の顔が、火花に照らされる。少年のように短い髪の先が、それでも少しはねていた。
「できない。法的にはできるかもしれないけれど、私と蒼海とは、できない」
どうして、と訊けなかったのに答えが返ってきた。
「蒼海は、一番好きだから」
このままがいい。
火花が弱く見えた。
このままでいいでしょう?
「蒼海も私が一番好きでしょ?」
頷くと、線香花火が消えて、ぽとりと地面に落ちる。
「怖いからいやだよ」
その瞬間、確かに碧海は笑ったのに、碧海の左目からは一粒だけ涙がこぼれた。
花火が落ちるのと同時だった。
ばいばい、と碧海が小さく呟いた。
天の川が綺麗だったのに。
「西瓜食べようか、腹ごしらえにはなんないけど」
碧海は笑って立ち上がり、西瓜を二切れ取ってきた。
「今夜は、この花火が全部終わるまで帰さないからね」
狭い縁側にびっしり並べられた花火を指さして不敵に笑う。
おかしくなって、西瓜の種を吹き出したのは、二人同時だった。涙の形をしている。
どうしようもなく、愛しい。
同じ夏に生まれた二人だった。
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