雨×キイチゴ


 雨は好きになれない。
 特に休日の雨は嫌いだ。退屈で憂鬱で、終わってみると普段の倍は疲れているから。
 昨日の夕方、天気予報を見て、すぐにレンタルビデオショップに走った。
 名前だけ何度か聞いたことのある、古い洋画を適当に三本借りてきた。
 もちろん字幕入りだ。吹き替え版は好きじゃない。
 生の声が聞きたい。
 全部で六時間とちょっと。これなら飽きずにいられるだろう。
 つまり、それだけ暇だったってことだ。


 思った通り、セピア色の映画は、何だか分けが分からなくて面白かった。
 きれいなブロンドの女がヒロイン。知的でオトナびた、低い声が耳に心地よい。
 実は英語、特に生の英語なんて、全くと言っていいほど聞き取れない。
 だから、絶えず字幕を追っていなければならず、目が無性に疲れてくる。
 それでも一時間半はすぐに経過して、一本目が終幕となる。
 愛されるふりをしないのがいい。
 イチコは、愛してくれる人と愛してくれない人を実に上手くかぎ分ける。
 次は推理ものにしようとビデオデッキに手を掛けた。
 二時間半の長編。一番観たいと思っていたものだ。
 「一番好きなものは真ん中にするといい。そうすれば、バランスが良くなる」
 イチコが言っていた。


 「イチコの考えていることはよく分からないよ」
 「そんなはずはない」


 推理映画を観始めて十五分ほどたった頃、玄関で郵便物の届いた音がした。
 面倒くさいと思いはしたものの、やっぱり取りに行かなくてはと感じてしまう。
 妙に律儀だと言われたことがある。
 まだ観ていたい視線を無理矢理引きはがして、片手でリモコンを探り当てた。
 一時停止のボタンを、親指でぷつりと押してやる。
 ちょうど、小太りの中年男性が階段から転げ落ちるという間抜けなシーンで、映像が揺れて止まった。
 重たい腰を上げて郵便受けを覗きに行くと、オフホワイトの封筒が一通入っている。
 宛先も、差出人の名前も書かれていない、ただ真っ白なだけの封筒。
 開封すると、水色のペンを走らせた白い便箋が出てきた。
 「キョウハイイテンキダロ」
 ついため息がこぼれる。だいたい、今の時間は郵便なんて来ない。
 ドアを開けると、イチコがいた。
 笑うな。


 「そう、目を閉じて。キイチ、ワタシが見える?」
 「見えるわけないだろ。目を閉じているんだから。もう目を開けるよ?」
 「ダメ。ワタシが見えるまではダメ。キイチは見ようとしていないんだ。だから、見えない」
 「どういうことなんだ? 分けが分からない。ちゃんと説明してくれないと」
 「……今、キイチの頬に触れているのは何だか分かる?」
 「イチコの、左手だ」
 「見えているじゃないか」
 「見えてなんかいないよ。感触で分かるだけだ」


 「おはよう、キイチ。どうせ今日は雨だから、家にこもっていると思っていた」
 キイチは雨が嫌いだからな。
 歯を見せて、心底嬉しげに笑う。
 招き入れると、さっきの手紙のインクと同じ色の傘を閉じた。
 白いワンピースからむき出しの肩に、青いビニルバッグが掛かっていた。
 持ってやると、想像したよりもずっと重たい。
 「何が入っているんだ? この鞄」
 「図書館に行って来たんだ。ハードカバーが十冊入っている」
 「……よくこんなもの運んできたな」
 「だから途中で耐えられなくなって、ここに寄ったんだ。雨も強くなってきたし」
 ふと窓を見上げると、確かに車軸の雨だ。
 でもイチコはほとんど濡れていない。
 もちろん傘をさしていたけれど、もうちょっと濡れているはずなのに。
 雨はイチコを濡らさないのだろうか。


 「頬で見えている。目で見ようと思っても、ダメ。目は何も見えないように出来ているんだから」
 「何も? 見えない?」
 「そう、何にも。何一つ見えないから、人は傷付け合うんだ。目ではない部分で見ようとしなくちゃ。目で見えている部分なんて、ほんの一部。キイチはワタシを思い浮かべるときに、何を?」
 「目。イチコの目は強いから。形もきれいだし」
 「キイチが本当に見ているのは、ワタシの目? それとも強さ?」
 「分からない」
 「考えて。例えばワタシの目が、キイチのような形の目だったら? こんな色じゃなかったら? それでも目を思い浮かべる?」
 「多分。……あぁ、きっとその通りだ」
 「そう。大事なものは、目には見えないし、耳にも聞こえてこない。ワタシが十六歳になったことだとか、髪が長いだとか。そういうことはどうでもいい。それに」
 「それに?」


 サンダルを脱いで、ぺたぺたと裸足で廊下をついてくる。
 「映画、観てた?」
 リビング兼ダイニングに入るなり、イチコは積み重ねられたビデオケースに目をやった。
 視線を動かしてテレビを見て、ふん、と笑った。
 これは興味があるときの仕草だ。
 「何の映画?」
 実を言うとタイトルを覚えていなかったので、ケースをまとめて差し出した。
 それを手にとって眺めながら、イチコが呟く。
 「くまのプーさんが観たかったな」
 「あいにくだけど、借りてきていないよ。今から行って来ようか?」
 「そんなことしなくていい。別にどうしても観たい、ってわけじゃないんだ」
 「じゃあ、次の雨の休日に借りておくよ」
 「うん」
 これは、未練があるときの頷き方だ。


 「言葉は、何も伝えない」
 「それはおかしいよ、そんなはずはない。現に今、イチコは俺に伝えようとしているじゃないか」
 「伝えようと、している。でも本当に伝えたいものは、行間の中にあるんだよ」
 「行間だって? この三ミリほどの幅の中に?」
 「そう。覗き込んでみれば分かる。ねぇ、ほら。覗き込んでみて。感じない? 言葉で伝わらなかったもの」


 リモコンの再生ボタンを押すと、男が階段から落ちた音が響いた。
 ビニルバッグをかき回していたイチコも振り向いて、くすくすと笑った。
 「一緒に観る?」
 あんまり楽しそうに笑っているから言ったのだが、すぐにイチコは首を振る。
 この映画自体に興味がわいた分けじゃないらしい。
 今日もただ無造作に下ろしている髪が揺れた。
 「借りてきた本を読むんだ」


 字幕を追いながらも、窓の下にもたれかかって本を読んでいるイチコの方が気になって、映画に集中できなくなった。
 無造作に足を投げ出して、真剣そのものの目でページを追っている。
 向こうの世界にいる。
 これはダメだと思い、停止ボタンを探った。


 「どうしてなんだ? 言葉は何も伝えないって」
 「伝えてしまうと、困るから」
 「何が?」
 「全部分かってしまう。何もかも。分からなくていいことまで、全部」
 「伝わってはいけないこともあるということか、」
 「ない?」
 「……難しいな」
 「何にも、難しくなんかない。でも、一つだけ。伝えてもらおう、なんて思わないで。何も伝わってなんか来ないから。伝わろう、としなくちゃ」


 伝わろう、としたら二人は何か変わるだろうか。
 教えてほしいことがある。
 伝えてもらおうって思わないまま我慢できるのか。
 寂しく、ないのか。


 「何を、読んでいるんだ?」
 「ハードボイルド歴史小説」
 本からは目を離さないまま、イチコが答える。
 鮮やかな青の表紙に、『三国志』と大きくかかれているのを目にして、息をのむ。
 他に、ビニルバッグからはみ出している赤い本にもそう書かれていた。
 「イチコは歴史が好きだな」
 しかし、また何でハードボイルドなんだと思ったのだが、それには触れないでおいた。
 「歴史は面白い。現実にこういう人たちがいて、こういうことをしていたなんて、ゾクゾクするじゃないか。それに、今この一瞬だって、歴史になっていくんだ」
 「ごもっとも」
 会話をしながらも、やっぱり視線は文字を追っている。
 こうなったらもう、こっちを見ないことは承知の上だ。
 でも会話が続けたくて、口を開く。


 「なにか飲みたいものは?」
 「ミルクがいい。プーさんじゃないけど、蜂蜜を入れて」
 たった一度だけ、ちらりとこちらを見て笑う。
 こんなことで喜ぶようになってしまった。
 自分を笑いながらキッチンに向かう。LDKなので、カウンター越しなのだけど。
 カップ一杯分のミルクを火にかけて、棚の中から蜂蜜を取り出した。
 透明な黄色が、光もないのに光ろうとする。
 これは、イチコ専用。
 ニュージーランドのおみやげにもらったと言って、イチコが持ってきた小瓶。
 今のところ、ちょうど半分ぐらいだ。
 ミルクを、これまたイチコ専用のカップに注いだ。イチコは「専用」が好きだ。
 自分の居場所を確保する、ふりをするのが好きだ。
 スプーンに蜂蜜をすくってミルクに落とした。
 白いミルクの中に、黄色い重いものがゆっくりと沈んでいく。
 これはかき混ぜない方がいい。イチコがかき混ぜたいと言うから。
 小さな、イチコさま専用の金色のスプーンを添えて、イチコの所へ持っていった。


 「ありがとう」
 やっと、ぱたんと本を閉じてカップに手をのばす。
 くるくるとかき混ぜて、満足そうに匂いをかいでいる。
 気がつくと、雨はやんでいた。
 ぱたぱたという音は、軒から垂れる雨水。
 「何か、食べに行こうか」
 カップを洗いながら提案する。
 「駅前の天丼」
 無邪気なくちびるの両端が上がった。


 「訊きたいことならある」
 「なに?」
 「大事?」
 「大事だよ、キイチ」


 何も伝えてこないものが好き。
 何かを伝えてくる人が好き。


 だから、寂しくなんかないよ。
 寂しくなんてありません。



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