数学系キイチゴ


 筆記用具。それからカバーを外した赤い表紙の参考書。分厚いノート。
 それだけ抱えて、イチコが訪ねてきた。
 かき鳴らされるチャイムの音。
 今日は、曇り。


 雨の予感はしない、曇り。


 「数学なんて。分からない」
 イチコにしては珍しく安易なセリフを吐き出す。
 もちろんいつもいつもテツガクめいた言葉ばかり紡いでいる分けじゃないが。
 「そもそも、この数字の羅列が気にくわない」
 数字に罪はない。
 細い指の中、握りしめられたシャープペンシルが呻き声を上げた。
 シャープペンシルに罪はない。
 もちろん、消しゴムも教科書もノートもみんな無罪だ。
 「もうすぐテストだろう?」
 「こんなの分かるわけがない」
 ぶつぶつ。ぶつ。ぶつ。とりとめなく。唇をつきだして。ぐっと。
 イチコは数学ができない。
 「というより、分かりたくなんかない」


 完璧である必要なんかないのに。


 時計だけが、規則正しく無数の音を刻んでいく。
 そのほかの音をかき消していく。時に支配されよう。
 テーブル付近に、シャープペンシル。消しゴム。定規。紙屑。
 その他いろいろ。落書きなんかも。
 散らばっているのは、全部イチコのせいだ。
 ちょっと機嫌が悪くなると、そこら中に物を放り投げる。
 「分からない分からない。……古池や蛙飛び込む水の音」
 何故そんな物を持ってきていたのか分からないが、カエルのお手玉まで放り出す。
 イチコは放り出し方も容赦しない。
 思い切り腕を振りかぶって、壁にたたきつける。
 「やりすぎだ、イチコ」
 イチコは、苛々の発散の仕方を知らない。
 「なんで?」
 カエルは、何ともなかったように床に転がった。当たり前だ。
 丸い形で黄緑色。ぴょこんと、二つの目が飛び出していて可愛らしい。
 友達にもらったんだと言っていたっけ。手触りがいい。
 「気に入ってるんだろう、それ」
 「そうだけど」
 眉間にしわが寄っている。よっぽど不愉快をためこんでいるらしい。
 「可哀想じゃないか」
 「キイチはワタシよりゴローが大事なのか」
 本気で怒られても、困る。
 放り投げられなかったイチローからシローまでが机の上できょとんとしていた。


 「もう今日はおしまい。キイチも疲れただろう?」
 ほんとのことを言うと、疲れているのはイチコだけだ。
 そんなに嫌いなくせに、適当にやるのは嫌だなんて性格じゃ救いようがない。
 救えない。


 「助けてなんか欲しくない」
 「ワタシは、強いんだから」


 勉強部屋から運んできた、黒いオフィスチェア。
 座ったまま、テーブルを押して、イチコがくるりと回る。
 ちょうど広げたノートに背を向けて。白い足をピンと伸ばして。
 まるで見せびらかしているかのような足の動き。
 裸足の足首を、上下に揺らせる。
 イチコのスリッパの内側が、すぐにすり減ってしまうのはこの遊びのせい。
 桜貝が、足の先からこぼれ落ちて曇り空に浮かび上がった。
 綺麗に切りそろえられた、小さな爪。
 「ああそうだ。言うのを忘れていたよ。明日、試合なんだ」
 愛しいのは、こういうものだ。
 「見に来るだろう?」
 真っ直ぐに切りそろえられた髪が、流れた。


 イチコは剣道をしている。六歳の頃からずっと。もう、十年間。
 近所の剣道教室に通っているのだ。
 週に二回の練習。そこの練習は、とても厳しいので有名だ。
 入った人の九割が、一ヶ月、もって三ヶ月でへばってやめていく。
 師範は手加減なんて言葉を知らないらしい。
 イチコにそっくりだ。
 イチコは師範に可愛がられている。
 性格的に馬が合うらしく、いつも厳しい師範がイチコには笑顔を見せる。
 実を言うと自分も、二ヶ月ほど習いに行っていた。
 特に理由はない。ただイチコに誘われたから。
 そんな生半可な気持ちで行ったためなのだろうか。
 想像していたよりもずっときつい練習に、毎回へばって耐えられなくなった。
 しかし、二ヶ月間一度も休まずに行ったのは快挙だと思う。
 イチコさまさまだ。


 イチコは、何故か強くなりたいという執念が強いらしい。
 何故かは知らないふりをしているが。
 「強くなくちゃいけないんだ」
 「強くなりたい、もっと強く」
 強くなくちゃいけない理由なんてないのに。
 「守られたくなんかない」
 どうして。


 試合は何度も応援しに行っていたが、通い出して初めて練習を見た。
 驚いた。ありふれた言葉だが、本当に驚いた。
 試合の時には、冷静に落ち着いているイチコが、汗を流していた。
 涙のように、目から伝ってしまうほどに。
 泣いてはない。
 炎のような目を、ずっとぎらぎらさせていた。気迫の固まりだった。
 力がつけたいんだと、太い木の剣を振り回していたイチコ。


 守ってあげようなんて傲慢、持ってないけれど。


 練習の後は、歩くのさえ嫌だった。
 イチコと同じ帰り道を、数歩遅れて足を引きずりながら帰った。
 イチコがまだずっと幼かった頬を膨らませていた。
 「キイチは弱い!そんなのでどうするんだ!」
 反論したくてもできない。イチコとなんて立ち合うと、五秒で負ける。
 睨まれた瞬間に負けている気になる。
 二ヶ月間通って、次第についていけなくなって諦めた。
 「まぁ、キイチの勝手だ。しょうがない」
 そう言いながら、ずっと頬を膨らませていたイチコのことを忘れない。


 イチコは、弱いものが愛おしくて、そして大嫌いだと言っていたっけ。
 今もきっと、そのままだ。


 「どこで?何時から?」
 「いつものところで九時から。来るだろう?」
 「もちろん。今まで一度だって行かなかったことはないじゃないか」
 言って、イチコの頬の赤みに気付いた。
 いつも真っ白な頬が、やけに赤い。
 「イチコ、熱があるんじゃないか?」
 「え?あぁ、うん。微熱だ」
 分かっている。イチコの「微熱だ」は「微熱」じゃない。
 多分かなりの熱だ。昔から発熱には弱いくせに。
 体温計はどこに隠されたんだったか。


 「そんなに心配しなくてもいいじゃないか」
 三十七度八分。
 体温計で遊びながら、イチコが唇を噛んでいる。
 いつものように隠されるといけないから、すぐに取り上げた。
 「明日の試合、休めよ」
 反論されるに間違いない忠告。
 「嫌だ」
 「だめだ」
 「明日になったら熱なんて引いている。そんなにやわじゃない」
 案の定。
 そんな小さな体が、そんなに強いわけなんかないのに。
 「そう言ったって、いつも引かないじゃないか」
 「とにかく。嫌だと言ったら、嫌だ。絶対に出るんだから」
 まるで子供だ。わがままの方向をもっと考えてやって欲しい。


 諦めることに慣れてしまった。
 「じゃあ、もう今日は帰って寝ないとだめだ。送って行くから」
 「そうか」
 勝ち誇ったように、イチコが笑う。
 胸を反らせて。まるで悪魔のように。
 「あぁ。もっと数学のオベンキョウがしたかったのに。残念だったな」
 そう言いながら、もっと笑う。今度は今日始めての柔らかい笑顔。
 顎を引いて。まるで小さな天使のように。


 もっと強く、なるから。
 「自転車の後ろに乗せてよ」



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