海×キイチゴ


 例えばその波に押しつぶされそうになる。
 「海は好きだよ。うん、海は好きだ」
 卵の殻を割るみたいに、夕日が落ちてきた。熱い。
 イチコのサンダルが白い砂を掻き回す。
 一日中裸足でいたのに、白いままの足。
 てかてかしたピンクのサンダルを強く踏みつけて遊ぶ。
 「ここにいるとね。何となく、苦しくなる。夕方は特に」


 イチコの背中が海へ向かっていく。
 強い日差し。かすかに赤味が差している細い背中。
 布越しに、綺麗な形を描いた肩胛骨。天使の羽根は、何時になったら生えてくるのか。
 (生えない)
 小さな足跡が、真っ直ぐに連なる。
 そのまま海に、消える。


 「イチコ」
 呼んでも。振り返ろうとは、しない。聞いていないふりばかりする。
 夕日が海に溶けていく。イチコも溶けていく。
 オレンジが溶け込んだ水に膝まで浸かって、イチコはそれでも動かなかった。
 「何だか胸が苦しい。ここにいると」
 イチコは海が好きだ。
 「なのに、また来なくちゃ行けないような気になる。どうしてだろう?」
 イチコは、海に沈んでみたいと言っていた。
 「ねぇキイチ、どうしてだろう?」
 そんなこと、分からない。


 「イチコ」
 今度は、振り返る。柔らかな弧線。
 笑っていた、崩れそうな人。崩れられない人。
 笑うのは、本当は苦手なんだと思う。
 いつもくちびるから先に笑って、必死に目を動かそうとしていた。
 「キイチにこれをやろう」
 さっき自動販売機で買ったばかりのソーダ。
 よく冷えている、真っ赤な缶。夕日の色。熱い。
 コドモのように、缶を振り続けていた。
 「それを、開けろって?」
 「そう」
 ぽぉんと投げてよこす。緩やかな弧線。


 「やるよ」
 タブを開けることは出来なかった。
 イチコが海を見ている。
 イチコが海を見ている。また背中を向けて。
 「泣いているのか?イチコ?」
 どうしてそんな風に思ったのか。分からない。


 「どうして?」
 振り返らないままのイチコ。
 「どうして泣いているって?」
 振り返るイチコ。
 大きな瞳が、さらに大きく見える。
 涙が盛り上がって、でもぎりぎりのところで零れない。
 (本当は弱いくせに)
 「一つも悲しいことなんてないのに。一つも辛いことなんてないのに。どうして?」
 涙をこぼすまいと。ぐっと、眉間にしわを寄せて。
 まるで怒りのようだった。


 イチコに近づく。一歩だけ。
 「時々、そんなことだってあるよ」
 (嘘くさいな)
 「涙の古いのは、流しとかなくちゃ」
 (でも本当らしい)
 「そうしたら、本当に泣かなくちゃいけないときに、綺麗な涙が、流れるって」
 (何が嬉しくてこんなこと)
 「イチコが、言っていたじゃないか」
 (嬉しくて)
 もう一歩だけ。
 「泣きたいなら、泣けばいい」
 眉をつり上げるイチコ。
 「泣かない。泣く理由がない」
 駄々をこねるコドモみたいに。意地っ張り。口をつむって。
 「理由なんて、どうでもいいじゃないか」
 そう言って笑いかけた。


 瞬間。


 イチコが海に沈んだ。自分から。
 オレンジ色が、ざぶんと揺れる。体を大きく反らせて。
 小さな口から、大きく息を吐いて。
 あまりのことに、声も出ない。


 「イチコ!」
 (きれい)


 生きてるって、死ぬほど幸せですね。


 頭から海の雫を零して、イチコが歩いてくる。
 満足げに笑って。しかも、裸足で。
 もう瞬きもできない。
 「塩辛い」
 くちびるだけ笑っている。
 「泣いていないだろう。塩辛いのは、海の味だ」
 うっすら赤い目に覗き込まれる。まだ睫毛から雫がこぼれ落ちているのを見つけた。
 「うん、泣いていませんね、イチコさま」


 イチコが大きくのびをする。そして、びしょぬれの手で人のTシャツを引っ張る。
 「喉が渇いた」
 遠くを見る。
 「塩辛い。ジュースを買いに行こう」
 引っ張ったまま、前を向いて歩き出す。背筋をしゃんとさせて。
 砂浜の足跡が、さっきより小さい。
 「おごって」
 「何を?」
 「泡の出るやつ」


 てかてか光る。
 ピンクのサンダル。
 だけが。
 オレンジの海に。
 浮いたまま。
 きっと。
 後で取りに行けと。
 言われるのだろう。


 「早く、」



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