atelier〜祈りにも似た歌



 勘違いしないでよ。
 私は強くなんかない。
 「その強さに憧れます」
 最近届くようになったファンレターは、そんなのばっかりだった。
 自立している女。甘えない女。強い女というものに憧れるらしい。
 そんなのが未だに流行っているなんて、代わり映えのしない。
 それでも皆、勘違いしている。私は強くなんかない。
 真っ赤なスプリング・コートに身をまとい、冬なのに、もう春の格好。
 「千夜ちゃん、こっちを強く見て」
 指示に従い、カメラの奥を強く睨みつけると周りからため息が漏れた。
 「いいよ、そのまま」
 出来上がった写真の中で、私はいつも強がっている。
 強いんじゃない。強がっている。
 世界なんか信じていないと、そんな子どもみたいな顔をして。
 ねえ、そんな顔のままじゃ何も手に入らないんだよって言いたいのに。
 「千夜の、その強い目。いいね」
 こんなの。どこがいいの。私、ちゃんと知っているのに。
 早く、愛する人たちの元に帰ろう。


 あの日以来、清と洋二郎と私の関係は少し変わってしまった。
 それは本当にほんの少しの変化で、周りの人に気付かれることはなかった。
 あの秋の日、洋二郎が清の絵を描き始めたあの日から、私たちは二人と一人になった。
 私と洋二郎、と清。
 私と清と、洋二郎。
 清と洋二郎、と私。
 そうして共犯者になっていく。


 クリスマスプレゼントなんてものを期待しなくなって、もう何年になるだろう。
 欲しいものなんて、私にはあまりない。
 一昨年の冬、家出した。
 正確には、もう独立していた兄の家に転がり込んだだけだから、家出とは言わないのかもしれない。
 高校を卒業して、モデルの仕事も本格的になってきていた。
 私はただ、両親から離れて暮らしてみたかっただけ。
 十五も年の離れた兄はそのとき既に、新鋭の画家として注目され始めていた。
 子どもだった私には、このアトリエがとても自由な場所に見えていた。
 自由で、そして安全。
 私はとても簡単な道を選んだだけ、ずっとそう言い聞かせてきた。
 洋二郎は、ただのお兄ちゃん。
 ずっと小さい頃から両親の真似をして、分けも分からずに洋二郎って呼んでいた。
 お兄ちゃん、なんて呼んだことはない。
 兄だなんて思ったことは、なかった。
 ずっと二人でいたかった。ずっと私にだけ、優しくしてほしかった。
 このアトリエに、清が入り込んでくるまでは。


 清が、とっくにやめていたはずの進学をすると言い出した。
 清の中で、何があったのかは知らない。
 夏からもう決めていたのだと言っていた。
 洋二郎は、何も言わなかった。
 「もちろん、大学に行ったって、ここには通ってくるつもりです」
 夏が終わった頃から、清は一気に大人びた。
 笑い方が、変わった。
 ここに来てすぐの頃は、高校生にしてもあどけなくて、子犬みたいだった。
 今ではもう、清の中に幼さなんて見あたらない。
 もともと端正だったけれど、余計な部分がそぎ落とされたみたいにきれいになった。
 可愛いままでいればよかったのに。
 可愛いままで洋二郎を慕うだけなら、赦せたのに。
 洋二郎が、清のことを気にしだしたのにはすぐに気付いた。
 ずっと見ているんだから、そんなこと気が付かないわけがない。
 余裕の表情を浮かべているのは、清の方。
 「清、あんまり洋二郎をからかっちゃ駄目よ」
 「何のことだか分からないや」
 笑って首をかしげる姿は、きれいだった。
 私が不安でいたたまれなくなるくらい、きれいだった。
 「大人をからかうもんじゃないわ」
 「待ってるんです、今度は」
 「面白くない冗談ね」
 私も、笑う。
 余裕のふりをして、笑う。
 私も笑わなくちゃいけなかった。
 弱みを見せられないと、震えたのは本当だった。
 分かっている。分かっているけど、言いたい。
 私から洋二郎を取らないでよ。
 欲しいのは、この人だけなのに。


 秋の深みの中で洋二郎が清の絵を描き始めたとき、私はついにこのときが来たのだと思った。
 清のことは好きだと思う。
 でも、それでも赦せないとずっと思っていた。
 そんな風な気持ちが、揺らいだ。
 諦める日が近づいてくるのだと、完成に向かう絵を毎日こっそりと確認しながら、思った。
 完成したら一番に見せてくれるとの約束通り、私は清よりも先に清の絵の完成を見た。
 秋の終わり、寒い日だった。
 アイボリーのカーテンが揺れていた。
 そういえば、このカーテンも私たち二人で買いに行ったんだったっけ。
 「この清、きれいね」
 「上手く描けているか」
 今まで自分の描いている絵に疑問なんて感じてなかった洋二郎が、初めて不安な表情を見せた。
 それだけで私は震える。
 「自信がないの?」
 「描き切れている自信がないんだ」
 真っ赤なソファに寝ころんだ清。
 少し長めの髪が目にかかって、長い睫毛が陰を作っている。
 それなのに、真っ直ぐにこっちを射る視線は強くて、切なかった。
 「きれいだと思うけど」
 「きれいなだけじゃ、駄目なんだ」
 きれいなだけじゃ駄目なものって、何?
 結局脱ぐことにしたって言っていた、体の線もきれい。
 無造作に置かれた手の表情も、足の形もきれい。
 それ以上に、何を望んでいるというのだろう。
 「清はもっと、」
 「もっと洋二郎の心を捉えているのね」
 今まで、洋二郎の絵の中で一番出来がいいのは、私の絵だと思っていた。
 いつか清が好きだと言っていた、あの絵。
 あの絵が一番、洋二郎の気持ちがこもっていると、思っていたのに。
 「そうかもしれないな」
 もう敵わないのだと、一枚の絵に思い知らされた。
 ため息をつく洋二郎の前から、消えてしまいたかった。
 「千夜、どう思う?」
 どうも思わない。


 洋二郎は一見、冷たくてつれないように見えるけど、本当はお人好しで優しくて不器用だった。
 無愛想な表情のせいでいつも勘違いされて、あまり友達はいない。
 だから、私がずっとここにいられた。
 放っておくと、ずっと絵ばかり描いてて自分のことなんか顧みない洋二郎の世話をする、優しい妹。
 ちょっと皮肉屋のふり、ちょっと意地悪なふり。
 すべて洋二郎の心に焼き付きますようにと願う、それでも妹。
 私が懸命に演じてきたのは、そんな道化師。
 そこに可愛いお人形が転がり込んできて、そして。
 そのお人形は、誰よりもきれいな人間になってスポットライトを浴びた。
 妹は、それでもお兄ちゃんの前で笑える、はず。


 私ずっと、あなたの背中だけ見ていられれば幸せでした。
 不器用なあなたが、私にだけは素直に何でも言ってくれること、誇らしかった。
 冬にもう、春の格好をしてカメラを睨みつける私。
 そんな強さ、いらなかったのに。
 今年の冬はひどく寒くて、一人で耐えるのが怖かった。


 清の受験終わったことを知ったのは、洋二郎を通してだった。
 こんな風に、少しずつ私たちの関係が変わっていくのだと思う。
 「清、もう受験終わったんだって?」
 「ええ、昨日終わったんです」
 そういえば最近、清の姿をあまり見かけないと思っていた。
 「受けたの、近くでしょう?」
 「そうですよ、ここを離れたくなかったし」
 真っ赤なソファに座って、コーヒーを飲んでいる。
 そこは昔、私の席だった。
 「洋二郎と離れたくないんでしょう?」
 窓の側で絵を描いている洋二郎にも聞こえるように言ってやる。
 「そうかもしれない」
 清は笑ったけれど、洋二郎は顔をしかめてそっぽを向いてしまった。
 「清、煙草を買いに行ってくれないか」
 「話をそらさないで」
 洋二郎は、私にさえ買いに行かせなかった煙草を、最近では清にまかせている。
 少しずつ距離を縮めだした清と洋二郎を、この先ずっと見ていくなんて耐えられない。
 けじめはちゃんとつけたかった。
 「清、受かってる自信はある?」
 「ありますよ」
 ここで極上の笑みを見せられる、この子のこんなところが嫌いなのかもしれなかった。
 「じゃあ清、」
 私、提案があるわ。
 「受かったら、ここで暮らしなさい」
 私も最後の、余裕の笑みを。
 「え?」
 「私、ここを出て一人暮らしを始めようと思うの」
 「どうして、」
 それが一番だから。
 私はそう思うから。
 最後くらい、私が勝ってもいいじゃない。
 清が受かったら私、家を出て行く。
 そして清と洋二郎が暮らす。
 これくらい単純に、終わらせてみたかった。


 「愛したり愛されたりすることって罪ね」
 「だったら、千夜さんは終身刑だ」
 清も、私も分かっていた。
 「清は?」
 「さしずめ、死刑かな」
 ねえ、きっと洋二郎は分かっていないのよ。


 引っ越しのための荷物は、それほど多くなかった。
 仕事柄、服はたくさんあったけれど、新居のスペースを考えて、着ない服は置いて行くことにした。
 家具は新しいのを買えばいい。
 ボストンバッグ3個分、それが私が自由になるために抱えていく荷物だった。
 もうすぐ春が来る。
 飛び立つ準備は、楽しかった。
 思わず鼻歌がこぼれるほど、楽しかった。
 荷物を詰める手伝いをしてくれる清が、私の歌を聞いて首をかしげる。
 合格通知が届いてからは、また毎日ここに通ってきていた。
 ここで暮らし始めるのは、もう少し先らしい。
 「清、この曲聞いたことがある?」
 「ないな。賛美歌に似てる」
 「教えてあげない、清にだけは」
 私たちみんなが、幸せであれますように。


 今、くちびるをこぼれたメロディが、私のお祈りです。


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