雨間 んーっ、と意味をなさない発声、それで胡堂辰巳は、自分が今まで眠っていたことに気づいた。 背中の辺りに、頬の感触のようなものがある、やわらかい。 「なんや、辰巳、起きたのん」 寝惚けて掠れた声、従弟の胡堂司である、甘い甘い、それでいて、どこかでふっと途切れるような感じ。 新鋭化学教師、辰巳先生は準備室の机に突っ伏して眠っていた、その背中にもたれて眠っていたらしい。 どうしてこう、うちの家系はすぐに眠るかな、と思いつつ。 「辰巳、コーヒー」 「家に帰って飲め、このままこの部屋でコーヒー飲み続けたら、カフェイン中毒になる」 「だーれーがー」 妙な方向に首をかしげた問いかけ、ぱちん、と額をはじいてみる、いて、と声がした。 「俺様が」 そんなところで、意志疎通は出来るのである。 別に血のつながりやらそういうものだけでなく、特に通じる二人というか。 別にこいつと通じていたいなんて思わない、お互いに毒があるのは知っている、体も心も、 相性はよいのだろうけど。 そろそろ前髪を切らないと。 六月、ではあるが。 確かに顔は整っている、ぱっと見て一番最初に目に付くのは顔、それでも、辰巳先生、どんな人だった、 と人から訊かれて必ず答えるのが、ルックス? いやいや、何故か白衣の背中、であった。 背中がかっこいい男なんて、反則である。 「せんせ」 司はいつの間にか、膝の上に乗っている、妙な格好だと思った。 「何してんの、お前」 「ゆーわく」 首に手を回し、甘い溜息、くちびるをぎりぎりまで近づけてくる、くる、くっついたのは、頬だったが。 せんせの眼鏡、邪魔や、と呟くのが聞こえた。 「今夜、せんせの家に泊めてほしいんや」 半開きなのは、さて目であったかくちびるであったか、ともすればすぐにかき消えてしまうような印象。 曖昧な辰巳の余裕、司の紡ぐような声、そのどちらとも言えない何かが、交錯していた。 なんで、と問い返す声はつられることなくしっかりしていて。 多くの者が落とされ、引きずり込まれないではいられない司のまなざし、しぐさも、 惑わされずにいられるのは、幸か不幸か。 長い睫毛が陰をつくる、やわらかいくちびるが噛まれる。 理性をなくしてしまえ、と訴え掛ける不協和音のような、それでも聴かずにはいられない、 一種のまやかしのような声も、慣れてしまったのか。 それは、それで困るような気もするが。 惰性と耐性の和を二乗して、家族愛の行き過ぎ。 「久々に、辰巳のつくったエビピラフ、食べたいんや」 くちびるを外されて食傷気味。 「なんや、奪ってやろう思たのに」 「なんでお前に奪われる必要が、」 ちらりと上目の、不安定にかしげた首に、かり、と噛み付いた。 「ピラフー」 「めんどくさー」 「ピラフー」 さっきまでまとっていた雰囲気など、さっさと脱ぎ捨てて、明るい声、ただ食べたいものを訴える。 甘えるな。 「宿泊代と食費はきっちり頂くからな」 「えー……けち」 机の上の紫陽花は、まだ色も変わらない。 「愛が足りんよ、」 「あー、雨やね」 「見りゃ分かるだろ」 朝らしい、辰巳の部屋である。 辰巳はベッド、司はその隣に敷いた布団の上、二人とも寝起きはめっぽう悪い。 「ベッドに上げてくれたらええのに。一緒に寝たかったなぁ」 「それは嫌だ」 「なんでや、俺は気持ちええよ?」 「知ってる」 乱れきっている。 司がベッドの上に這い上がってくる、ぽふ、と奪い取った枕に顔を埋めて二度寝。 「おい、学校遅れる」 「んー、そんときは辰巳も一緒やもん」 「先に言っとくけど、車、乗せていかないからな」 一言で、がば、と起き上がる、うそぉ、と叫んで司は準備を始めた。 ほこほこ、コーヒーを沸かす音。 窓を開けると、雨の匂いが立ちこめる、コーヒーの匂いと混じって。 「今、思たんやけど、せんせ、朝の雨の匂いがする」 コーヒーを入れながら、司が呟く、それならば司は夜の雨の匂いではないかと。 「ベランダの紫陽花、ちょっと教室に持っていってええか。飾りたいんや」 「司、行く前に一回帰らないんか」 眼鏡を探しながら、訊く。 「今、帰っても誰もおらん、父と母は旅行中や」 「ふん、叔父貴たちはまた旅行か」 「そや、何回新婚旅行したら気が済むんやろ」 「それでグレた司くんは、不良になって朝帰りか」 「文句あるか」 あるもないも、司は腰に手を当て、胸を反らせる、妙に反抗的な態度。 「お前、性格、俺にそっくりだよなー」 「うわ、それって最悪やん」 「なんだと」 「ふん、だからルックスはええのに、未だに決まった相手がおらんのや」 「俺がな、相手を決めると、その一人以外の多数のファンが悲しんだり、争いが起こったりするだろ、 だからだよ」 「ふうん、不特定多数ってことか。みんなに言うてやろ」 「……エビピラフ返せ」 お互い、ガキ、と舌打ち。 雨音は強くない。 雨の、匂いも。 |