天使の演習


 神様を蹴飛ばしたいような気分だった。
 生理なんて来なくていい。
 今日も、強い痛みをやり過ごすのに必死だった。
 誰もいない保健室のベッドで、天井の染みを数えていく。
 端から順に、一つも洩らさないように確認していく。
 それは、痛みを落ちつけるための一番いい方法だ。
 黒い染み。灰色の染み。黄色い染み。赤い染み。
 オフホワイトの天井に、点々と染みが散っている。あんまり愉快な光景じゃない。
 でも、一人で保健室のベッドに寝転がると、目の前にあるのはそれだけだから。
 きりきりと痛い子宮に手のひらを当てて、やってくる痛みをやり過ごそうとして思いついたのが、天井の染みを数えること。
 くだらないことをしていると思う。
 でも、何かしていないと叫んでしまいそうだった。
 月に一回の生理のうち、何日かは必ず保健室で寝ている。
 一番奥の、窓際のベッドが私の指定席だ。
 ここからは、サッカー部が必死で汗を流す運動場も、春しかみんなに見てもらえない桜並木も校門も見える。
 このベッドを、本当に私だけが独占できるのなら、何か一つ失ってもいい。
 最近、もうすぐ生理になるって分かるようになった。
 体の奥底から、鈍い痛みを感じ出すと、二日以内に生理が来る。
 こんなの分からない方がいい。
 分からないままならいいのに、二日も余分に憂鬱にならなきゃいけない。
 憂鬱でいるのは、ひどく疲れる。
 私は、女になんかなりたくない。


 子供のころ、将来の夢を聞かれて、私は天使になりたいと言った。
 大人たちは笑ったけれど、友達も笑ったけれど、私は本気だった。
 天使には性別がないのだと聞いた。
 だったら私は、天使になりたい。


 「大丈夫?」
 柔らかい声とともに、外の冷たい空気が入ってくる。頬だけが冷たいと感じた。
 「薬、効いてきた?」
 蛍だ。
 細長い指がカーテンを開けて中に入ってくる。特に手入れもしていないのに、きれいな爪をしている。
 蛍が首をかしげると、素直に伸びた黒髪が肩をすべり落ちた。
 お世辞ではなく、蛍はきれいだった。
 「うん。あんまり痛くなくなってきた」
 顔の造作が特別整っているわけじゃない。
 でも、一本一本が細くてつやつやした髪は誰よりきれいだったし、笑うと口の両側にえくぼができる。愛嬌もあった。
 笑顔が可愛い女の子とは、蛍のような子のことだろう。
 神聖な雰囲気があるわけじゃない。でも触れてみたいと思う。
 「よかった。この薬、よく効くんだね」
 私が無造作に枕元に放ってあった薬の包み紙をつまみ上げると、蛍はそれをきちんとゴミ箱に捨てた。
 ついでに、私が適当に脱ぎ捨ててあったブレザーとリボンを、ちゃんとたたんでかごに入れてくれる。
 私はその間、ずっと蛍のことを見ていた。
 私だけじゃない。
 蛍がいれば、その場に蛍がいれば、みんな蛍に注目する。
 「ありがとう」
 「いつものことだよ」
 蛍。私の親友。優しくて、お人好しで、可愛い。
 もし私が男だったら、きっと蛍に恋をしていた。
 私は蛍に恋をしていた。
 でも、私は女になっていく。
 「もう起きあがれる?」
 ベッドに腰掛けて、蛍が私をのぞき込む。
 「たぶん大丈夫」
 「三葉、どうして髪を切ったの? 似合ってるけど……」
 私が髪を切ったことが、蛍にはとても重大なことみたいだった。
 きれいな指が、肩にも届かない私の茶色い髪をすく。そんなきれいな指で触らないでよ。
 「どうしてって……」
 蛍に近づきたくなかったから。
 蛍は、女だ。きれいで、そして温かい。
 一緒にいると心地いいのに、私がこんなものになるだなんて信じられなかった。
 子宮が痛い。私は報われないことは、しない。
 「一緒に伸ばそうって約束したのに」
 私は蛍が大好きで。
 「あ、ごめんね」
 それなのに、今日は蛍が大嫌いだった。
 「いいよ、もう。三葉は短い方が似合うよ、うん」
 そんな風に笑ってみせる顔さえ。
 「さっぱりしていい感じ」
 蛍は、どうして私の親友なんかやっているんだろう。
 私はこんなに汚れているのに。
 「私も三葉みたいに短くしようかな」
 「やめときなよ。蛍は長い方が可愛い」
 ゆっくりと起きあがる。
 背中を支えてくれた蛍の髪に、指をからめた。蛍が笑う。
 冷たい髪だった。逃げるように指の間をこぼれ落ちていく。
 「蛍の髪、きれいなのに」
 逃げた一房をもう一度捕まえて、くちびるを落とす。
 甘い香りがした。心臓に爪を立てられたようだった。
 「三葉……」
 三葉。幸せを呼ぶ、四葉には一枚足りない。
 後の一枚は自分で探して欲しいからと、両親が私につけた名前。
 最後の一枚なんか、見つからないよ。
 「くすぐったいよ」
 蛍の耳にくちびるを寄せた。
 「大好き」
 突然、蛍が私を押し戻した。
 今にも泣き出しそうな目で、私をにらみつける。
 どうして、大好きって言ったのに、そんなに泣きそうな顔をするんだろう。
 「私、先に帰るね」
 それなのにどうして、無理に笑おうとするんだろう。
 「蛍?」
 それとも、蛍は私の気持ちに気がついたのだろうか。
 「雨、降りそうだから。傘、余分に持ってるから。これ」
 水色のきれいな傘。蛍のお気に入りの傘だ。
 「じゃあ、また明日ね」
 ぐいと突き出された傘を、私はどうしようもなく受け取った。
 「蛍?」
 蛍は、ゆっくりと保健室のドアまで歩くと、一度振り返った。
 「三葉、どうして泣いてるの?」
 そう言って、笑って出て行った。
 私か蛍か、どちらかが残酷だ。


 私は可愛くない。素直じゃないし、意地悪だと思う。
 天使にはなれないかもしれない。
 薬が効いていたはずなのに、子宮が痛い。胎児のように丸くなって痛みをこらえた。
 天使になる方法を、誰か教えてください。


 少し眠ってしまっていたのか、気がつくと外は雨だった。
 痛みはもうない。起きあがって、窓に近づいた。
 外はきっと寒いのだろう。結露していた。
 たくさんの水滴の上に、私が映っている。
 真っ赤な目。ひどい顔をしている。
 窓に触れると、指先のところから水滴がこぼれていく。おかしい。
 ちょうど右目のところから、冷たい水が窓を伝っていった。
 私は、泣いてなんかいない。
 「いつ帰るんだ?」
 私の後ろに、保健室の先生が立っていた。
 「帰りたいとき」
 眠っているうちに、戻ってきたのだろう。
 「いつ?」
 先生の声は好きだ。高くもなく低くもなく、深みのある声。
 この声が耳元で聞こえたら、きっと私は何も考えたくなくなるだろう。
 「今じゃない」
 「そうか」
 何にも悪いことをしていないのに、強く雨に打たれる窓に先生の横顔が映っている。
 男の人特有の線の固さがあまりない、むしろ繊細な造形だった。
 それでも先生の顔は、男の人の顔だ。
 この窓に映るのが私じゃなくて蛍だったら、映画のワンシーンのようにきれいだったに違いない。
 私は、中途半端だった。
 でも私は中途半端なままでいいのに。
 「先生も、蛍みたいな女の子が好き?」
 先生に背を向けたままで聞いた。窓に映る顔では、先生の表情は分からない。
 「何?」
 生理中、私は蛍を嫌いになる。そしてその後は、罪悪感に押しつぶされそうになった。
 「蛍みたいな女の子の方が、好き?」
 なぜか、外の雨の音が聞こえる。ざあざあと頭の中で鳴り響いて、思わず顔をしかめた。
 先生が苦笑する。
 「なんて顔してるんだ。宮内、おまえ泣きそうだぞ」
 喉の奥が引っかかるように先生が笑った。
 でも表情は、ぼやけている上に眼鏡で隠されて見えない。
 「先生の眼鏡、じゃまだよ」
 「むちゃくちゃだな……」
 先生の肩幅は広い。
 「俺は、宮内みたいにぎりぎりで頑張ってるようなやつの方が、好みだな」
 振り返ると、先生の右手が伸びてきて私の頭をなでた。
 長い指。固い節のある、大きな手だった。
 左手の薬指に、先月まであった指輪がない。
 先月まで先生にはきれいな奥さんがいたのに、先生は離婚した。
 何で離婚したのか理由を聞いたら、大人の事情だと笑っていた。
 先生はずるい。先生は、傷つくのが苦手だ。
 「だったら、」
 私の方が蛍より好みだと言うのなら。
 「私とつきあってくれる?」
 先生は、穏やかに笑ったまま表情を変えなかった。
 保健室に電気はついていない。私が寝ていたから、つけないでいてくれたのだろう。
 でも、もし電気がついていてもきっと同じように見えただろう。
 笑っていればいいなんて思わないでよ。
 そんなものが欲しいわけじゃないのに。
 「後、五年くらいしたら考えよう」
 そしたら私は二十歳だ。こんな風に甘えていられない。
 お仕着せの制服を脱いで、きれいな服を着て、お化粧もしているだろうか。
 もっと女らしくなった蛍の隣で、私は今と同じように笑っていられるのだろうか。
 「今がいい」
 「無理だよ」
 「今じゃなきゃ、やだ」
 大人になってからでは、女になってからでは遅すぎる。
 考えることを放棄したくて、ブラウスのボタンに指をかける。指がふるえた。
 一番上のボタンを外そうとしているのに、思うように指が動かなかった。
 「宮内、」
 三葉って呼んでよ。幸せのクローバー、後一枚を見つけられない私の名前を、ちゃんと呼んでよ。
 先生の手が、私の指の動きを止める。
 熱くもなく、冷たくもなかった。ただ力を込めずにそっと当てられた手に、私の指は動かなくなった。
 こんなはずじゃない。
 優しくしてもらいたいなんて、浅ましい私の思いに気づかないでよ。
 「子供が大人の真似をするな」
 違う。
 「子供だから、大人の真似をするんだよ。先生」
 それでも私は、先生の手を振り払えなかった。
 優しすぎるのは、時に暴力よりもひどく私の心と体を痛めつける。
 「子供は鋭いから、怖いな」


 欲しいものを手に入れるためにはどうしたらいいのか、ちゃんと演習しておかないと本番で困ると思う。
 チャンスは何回もあるわけじゃない。
 でもその前に、本当に欲しいものが何なのか、どうしたら分かりますか。
 私は教えてもらいたいことがたくさんあります。
 自分で見つけられるのは、どこまでですか。


 先生が入れてくれたコーヒーに口を付けながら、ベッドに腰掛けた。
 高いベッドだから、小柄な私が座ると床に足がつかない。
 不安定だった。
 「先生。私、女らしくなっていくのかな」
 苦いのは苦手だから、私のコーヒーは半分以上牛乳だった。
 先生のコーヒーはブラックだ。
 「たぶんな。嫌なのか」
 正面の椅子に腰掛けて、先生はまだ一口もコーヒーを飲んでいない。
 「嫌だ」
 「男になりたいのか」
 「違う。そうじゃない」
 私はどちらにもなりたくない。
 「そうか。俺は昔、女になりたかったことがあったよ」
 雨はまだやんでいない。コーヒーの香りに混じって、湿った雨の匂いがする。
 「何それ?」
 「学生のころ、一度だけ姉貴の服を着て出歩いたことがある」
 話が見えない。ただ先生は懐かしそうに目を細めた。
 大人の顔だ。
 「それで?」
 「すごい美人ができあがってさ、お得な感じだったな」
 「お得?」
 先生は、どうしてこんなに楽しそうなんだろう。
 「いや、一人で男も女も両方経験できるなんて、お得だろう?」
 先生の言ってることは、私の感覚とは違いすぎて、分からない。ような気がした。
 「どっちかしか駄目なんて理不尽だよな。もったいないし」
 私の言っていることは違うのに、先生もそれは分かっているはずなのに、否定する気が起きなかった。
 先生はいつも本気だと、本当は知っている。
 そうして私もいつも本気で、本気すぎてつぶれそうだった。
 「先生、かなり軽いよね……」
 「そうか?」
 ようやくコーヒーに口を付けて先生が笑う。
 先生は猫舌だ。
 「そのせいで……奥さんに愛想尽かされたんじゃない?」
 「かもな」
 私の意地悪も軽くかわされる。
 なんだか嬉しそうな先生を見ながら、私はまた蛍のことを考えていた。
 そして、私の未来についても考えていた。
 外は雨がまだ降っていて、雨の匂いも雨の音も私の肌の表面から染みていく。
 いつか飽和点が来て私の目から涙がこぼれ落ちるまで、雨は私に染みこんでいく。
 私はどこまで行けるだろう。


 雨が降っている。
 雨が降っている。
 窓の外に、校門で傘をさして立っている蛍の姿が見えた。
 ぼやけてよく見えないのに、そう思った。



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