少年輪舞曲(ロンド)


 昼下がりの校庭では、木陰が好きだった。
 人間には、太陽に属する種と月に属する種があると言ったのはマトオだった。
 夢見屋の彼らしい。しかし、言い得て妙だとユッカは感じた。
 「僕やユッカは、間違いなく月の種なんだと思う。それも、典型的な」
 そう言ってマトオが手を差し出してくるのを、ユッカはさりげなく避けたが、心の内ではあの人のことを想っていた。
 ――僕やマトオが典型的な月の種なら、それなら、キリコ先生は、典型的な太陽の種なのだろう。
 「ユッカ、聞いている?また、あの人のことを考えてるんだ?」
 そうだと切り返すこともなくユッカは、あの人、キリコ先生のことを考える。
 キリコ先生は、今年になって新しく赴任してきた英語の教師だ。
 まさしく太陽のイメージそのもので、明るく社交的で優しい。
 一年中日焼けしているが、それは決して嫌味なものではなく、むしろ健康的な輝きで人を引きつけた。
 現に彼にはたくさんの、彼のことが好きだという生徒がいる。ユッカも、そのうちの一人であった。
 そのうちの一人でしかなかった。
 「ユッカは、太陽の人に惹かれる性癖がある。太陽と月が、相容れることなど、ないのに」
 マトオは、ユッカの額に落ちた髪を、指でつまんで、かきあげる。今度は避けられなかった。
 「好きになるのなら僕にしなよ、ユッカ?」
 マトオの誘惑はほぼ確実。しかしそれも、従兄であり幼なじみでもあるユッカには、たいして効かない。
 「あの人は、ずっと別の世界の人だよ。ユッカを好きになりなど、しない」
 「君に言われることじゃない」
 マトオが絡めてきた腕を、ユッカは邪険に振り払う。
 「おや、ご機嫌斜め?」
 くすん、とマトオは笑って立ち上がった。
 「ああ。君のせいでね」
 ユッカは依然、無愛想なままである。
 それじゃあね、と一言呟くと、マトオは、ユッカの左の耳元に軽く唇を押しつけてから、身を翻して駆けていった。
 「マトオのせいじゃないことは分かってるんだ」
 ひらひらと舞う気紛れな蝶のように奔放なマトオを、ぼんやりと見送る。
 いつもこんな調子だった。


 ユッカは、あの一つ年下の幼なじみを、嫌いなわけではない。同種の者だ、むしろ、惹かれるものを感じている。
 それにマトオは、誰よりも綺麗だ。光の一点もない闇色の目と、薄くて冷たい爪を持っている。
 マトオを初めて見て、すぐにその性別の分かる者は皆無と言っていい。
 ある者は「少年に決まっている」と言い、またある者は「美しい少女だ」と言う。
 マトオは、何故かどちらにも見える。しかし、どちらかの性をしか望まない者には、その一方にしか見えない。
 男を愛する者には少年に見え、女を愛する者には少女に見え、どちらも愛する者には、どちらにも見えた。
 人の望む通りを映しだしたものが、マトオである。
 だが彼の性格は奇抜で、必要以上に気位が高く、そして苛烈で我が儘で寂しがりやだった。
 言うことは脈絡もなく、自分のしたくないことは、絶対にしない。
 好きな者は本気で愛するくせに、嫌いな者は徹底的に痛めつける。
 マトオはそして、ユッカが一番好きだという。
 だから、マトオを嫌いだなどとは思わないのだった。
 そしてユッカには、マトオがはっきりと少年に見える。
 それは物心付いた頃からで、ユッカにはそれが普通のことだと思っていた。
 望んだのかもしれない。


 起立、礼。
 スイの美しい声に従って、ユッカは皆と同じように、授業を始める準備をする。
 軽い昼食のあとの授業は本当に眠たく、友人の中には、すでに夢の世界へと誘われている者もあった。
 しかし、ユッカは起きていた。眠たくなど、なるはずもなかった、キリコ先生の授業なのだ。
 キリコ先生の、明瞭な発音を聞く。少し小さめの字を、きっちりと詰めて黒板に書いていく先生が、右手も左手も自由に使えるのを知ったのは、つい最近だった。
 今は、右手にチョークを持っている。
 「じゃあ、このページを、」
 キリコ先生が振り返る。ユッカは指名して欲しかった。
 その問いが完璧に分かるからではなく、ただキリコ先生の明るい声で、名前を呼ばれてみたかった。
 我ながら控えめな望みだと思う。
 「スイ、訳して」
 はい、と少しはにかみながら立ち上がるスイを見て、皆が溜息をついた。その真意は知らない。
 スイがよく通る声で訳を読み上げていく。
 スイの母親は、マトオの母親でもあり、ユッカの母親の妹で、声楽の先生だ。
 スイの声は、母親譲りの美しい声だと評判、もちろんマトオもだが、彼のはいささか甘すぎるきらいがある。
 スイが訳をしている間、キリコ先生は、終始微笑んでいた。スイは頭も切れる。
 気に入られるのは、当たり前だろう。
 的確な訳をして、スイが息を吐く。キリコ先生は彼のことをおおいに誉めて、席に着かせた。
 スイがにこりと笑った。


 「じゃあ、次を」
 不意に、ユッカはキリコ先生と目が合ったような気がした。驚きのせいで目を見開いてしまう。
 「次を、ユッカ」
 優しい調子で名前を呼ばれて、心拍数が一気に跳ね上がる。
 ユッカは焦って立ち上がり、大きな音を立ててしまう。くす、と笑い声が漏れた。
 「どうした? 聞いていなかったか?」
 また、ばちりと目が合って、ユッカは息継ぎの仕方を忘れた。首を左右に振ることで、なんとか意思を示す。
 「じゃあ、ユッカ、訳して」
 ユッカは、所々詰まりながら、昨夜懸命に訳した文を読み上げていく。
 キリコ先生が、スイのときと同じように頷いてくれるのを恐る恐る横目で見た。
 また目が合って、よくできたと誉められる。
 膝から下の力が、抜ける、落ちるように椅子に座った。
 スイがこちらをちらりと見て優しく笑う。
 それに、力無く微笑み返してみせる。

 「スイ兄さんから聞いたよ。ユッカ、あの人に指名されて、舞い上がってしまったのだって?」
 出されたビスケットを舌先でつついて見せながら、マトオが話を持ち出す。
 マトオの家とユッカの家は、歩いて五分のところにある。
 だからマトオは、よく学校帰りにユッカの部屋に上がり込んできた。
 それは、ユッカやスイも含んで皆に、お互いに言えることなのだが。
 「スイの奴、おしゃべりだ」
 僕がユッカの話をしてと頼んだんだよ、とマトオが言う。マトオの、つり上がり気味の目が大きく開いた。
 スイは、マトオの二番目の兄である。一番目の兄から、五つ、一つ、で離れた兄弟だった。
 ミノトという長兄がいた。
 「ユッカのことだから、焦って真っ赤になっていたんだろう?あの人は、優しい?」
 マトオが背中合わせに笑った。
 「どうでも良いことじゃないか、スイはそんなことまで言っていないはずだ」
 ユッカはいらいらと、言葉を紡ぐ。
 「だいたい、どうして、スイのことは兄さんで、僕のことは呼び捨てなんだ。スイと同じ年だし、従兄だ」
 「怒っているの?違うんでしょう、ユッカ従兄さん?」
 マトオは少し背中をひねり、妙に甘い声でユッカの耳元に囁く。肩胛骨が当たって、背筋が痛かった。
 「やめろ。気持ち悪い」
 「酷いな、ユッカ。最近、落ち着かないね」
 マトオが慰めるような仕草でユッカの首に腕を回し、そのまま胸元に顔を埋めた。髪にくすぐられる。
 「どうして、ユッカ?あの人に本気になってしまったの?いつもの遊びなら、誰だってすぐに落としてしまうくせに」
 ユッカが憮然として黙り込むが、マトオは気にしない。
 「そうじゃないか、ユッカは、僕よりもずっと上手だよね。ユッカとそういう関係になった人の名前を挙げてみようか?去年だけでも、サキヲ先輩、トウカさん、シジ先生、アサギ先輩、それから……」
 「やめろ、不愉快だ」
 「ユッカは、年上の人が好きだね。僕は、一つ年下であることを、少し残念に思うよ。ほらユッカ、いつもならこんなに簡単にくっついて、何の後ぐされもなく別れているくせに、どうなの」
 年齢に合わない大人びた笑い方で、マトオの唇が歪んだ。ねえ、と続ける。
 「僕は、あの人のことが嫌いだよ?」
 何故か、それを聞いてようやくユッカが笑った。
 「嫌いで結構。マトオがライバルじゃあ、太刀打ちできる自信はない」
 「僕は諦めないつもりだよ」
 そう言って、軽く唇を合わせてから、マトオは部屋を出ていこうとする。
 「ユッカの一番初めの相手がミノト兄さんだったんだから、僕にも望みはあると思うのだけれど」
 「マトオによれば、ミノト従兄さんは太陽の人じゃなかったか。太陽と月は相容れないと聞いたけど」
 ばたん、と音を立ててドアが閉まった。
 「ミノト兄さんは特別さ。月の弟を、二人も持っていたんだから。月の従弟に望まれたんだから」
 望めば何もかもかないますか。


 ミノトは三年前に死んでいる。近所の川で、溺れて死んだ。
 ユッカとスイ、それからマトオと一緒にメダカを捕っているときに、足をすべらせた。
 オトナ達はそう言うが、ユッカにはミノトが、水に吸い込まれていくように見えたのだ。
 ミノトは、言葉を話すことが出来なかった。
 ミノトは流れる水が好きだった。
 ミノトは少しだけ優しい人だった。
 ミノトはユッカの恋人だった。
 それだけだ。


 「キリコ先生、生徒が呼んでいるようです」
 放課後。キリコは同僚からこう告げられて、職員室の外で待っているという生徒のもとに急いだ。
 「先生、ちょっとそこまで同行願えませんか」
 にこりと笑う生徒は、はじめ美しい少女だと思った、しかし男子の制服を着ている。
 それでもまだ、男装しているのだと信じた。見覚えのある顔ではある。
 いぶかしむように見ると、その生徒は、妙に甘く笑う。
 「僕は先生の授業を受けていませんでしたね。マトオ、と言います。スイの弟です」
 それで、と思う。確かに似ている。ただ、弟だというのがどうも腑に落ちない。
 スイも同じような顔をしているが、彼は少年であることを疑わせない。
 「スイの弟か。何か、お兄さんのことで?」
 ふふ、とマトオは笑った。ユッカに、この人は嫌いだと言ったのは、ユッカが好意を寄せているからだ。
 しかしそれ以前に、マトオはこの人のことが、本当に嫌いだった。
 絶対の善良さに裏付けられた、明るく優しい微笑み。
 あまりに澄んでいる、太陽のような雰囲気、そういうものをマトオは嫌悪していた。
 マトオは、自分は月に属する種の性質が、最も顕著に出ていると思う。
 ユッカは、太陽に惹かれる性質があったし、スイは同種であるにしても、それほど顕著ではない。
 「スイ兄さんは、良い生徒でしょうか」
 「良い生徒だよ。彼は優秀だ」
 マトオは、『生徒相談室』とプレートのかかった部屋に、キリコを招き入れた。
 この部屋は、職員室からも、教室からも離れていて、実際に生徒の相談に使われることなど、ほとんどなかった。
 しかし使われた気配があるのは、ここがもっぱら密会に使用されるからであろう。
 乱雑に置かれた椅子に腰掛けることをすすめて、マトオ自身も、ことさらゆっくりと腰を下ろす。


 「ユッカは、どうですか」
 その瞬間に、マトオの持つ雰囲気が異質なものになり、キリコは息を飲み込んだ。マトオの領域が作られていく。
 確実に意識された視線と、絡めてくる腕に、キリコの動きが止まった。痛いくらいの威圧感を感じる。
 「どういうこと、かな」
 何故か、かすれるような声しか出ない。
 「ユッカは、僕の従兄なんです。今日は、彼のことでお話があって」
 胸元でそっと囁かれて、キリコは焦った。
 マトオの瞳が、深くきらめく。キリコは、どうにか自分の体勢を立て直そうと必死だった。
 その純粋な反応に、マトオは冷笑する。
 「先生は、良い人ですね。ユッカが貴方を好きだというのが、僕には理解できないや」
 それだけ言って微笑むと、キリコの瞼に軽く口付けて去っていった。
 キリコから、マトオの暗示がとけるまでには、数分かかった。
 「マトオなら、本気を出せばもっと上手に領域を作れるだろうに」
 窓の外が、赤く燃えていた。
 太陽が沈んでいく。月の時間がやってくる。
 もう少しだと思った。
 欲しいものは決して手放せない。


 次の日の放課後、ユッカはキリコ先生に呼び出された。場所はあの、生徒相談室である。
 何事かと思いながら出向くと、キリコ先生が、キャメルをくわえて座っていた。
 「入っておいで」
 呼ばれて入る。
 今日のキリコ先生は、妙に無表情だと思った。
 「先生、申し訳ありませんが、煙草を」
 ユッカは煙草の匂いが苦手だった。特にきつい煙草の匂いには、不快感がする。
 マトオなどは、煙草の匂いのする唇が好き、などと言っていたが。
 「ああ、すまない」
 すぐにキリコ先生は、携帯用の灰皿を取り出した。
 「それで、何の御用でしょうか」
 意識して姿勢良く座ると、キリコ先生の視線をひどく強く感じた。
 「先生……?」
 「君が私に好意を寄せてくれていると聞いた」
 柄にもなく、ユッカは動揺した。
 いつもなら、好きな相手と二人きりでいるときなど、たやすく自分の領域を作ってしまえるのだが。
 不意に、従弟の顔が思い浮かぶ。
 「もしかしてマトオが……」
 するりと、先生の視線が伏せられた。
 「本当のことか」
 ユッカは、救いを求めるような目で見つめられた。
 どうしてか、苦しいと思った。
 「本当のことです」
 それだけで精一杯だった。いつもなら自然に出来るであろう、甘い言葉も仕草も、一つも思いつかない。
 沈黙を破ったのは、先生の方だった。
 「私は、君の気持ちには応えられないよ」
 哀しそうに告げられる。
 辛いかと思ったが、ユッカは、自分でも意外なほどに冷静だった。これが、月の種であるゆえんだろう。
 同情に身をゆだねられない。
 キリコ先生の答えは、同情的なものだった。
 「応えるつもりなど、始めからないのでしょう。良いんです、応えて欲しくて、好きになったわけじゃない」
 愛すべき善良な人は、安堵とも苦笑ともつかぬ溜息を、ゆっくりと吐いた。
 「それでは、僕は、これで」
 残酷な仕打ちだと思ったが、それでもキリコ先生に絶望したわけではなかった。
 こういう裏表のない、善良な人だと知っていた。
 「失礼しますね」
 立ち去るユッカの声を聞くと、キリコ先生は、再びキャメルの箱を取り出した。


 紫煙を吐き出すと、入れ違いのように、違うドアから、マトオが滑り込んでくる。
 そのまま至近距離までやって来た。
 「ユッカを、抱きましたか」
 「いや」
 「ユッカに、口付けましたか」
 「してないよ」
 途端にマトオが、高く哄笑する。
 「そうですね。たった三分の逢瀬でした。折角ここまでお膳立てして上げたのに、ユッカは何をしているんだか分からないや」
 「言っておくが、私にそういう趣味はないよ」
 すでに興味を失った視線を、マトオはキリコに流す。
 「知っていますよ、先生」
 その声は、色あせて硬質なものだった。
 キリコの左手首を取り、驚いて離そうとするのを、力もないくせに引きとどめる。
 「男らしい手だ、先生。ユッカはこういう手が好きです。ほら、薬指に指輪のあとがある。婚約している方がいるんでしょう。綺麗な人ですか」
 そう言いながら、指で指をたどり、手首にはめられた、ごつごつした時計を愛おしそうに撫でてみせる。
 「よく分かったね、そんなこと」
 「分かりますよ。あなたには、ユッカがずいぶんと好意を寄せていたようだから。ところで、どうして学校には外して来るんですか。勘違いする生徒もいるだろうに」
 「落とすのが、嫌だから」
 「先生、ユッカは、僕のものです」


 マトオが自宅に戻ると、ユッカがマトオの部屋で待っていた。
 強い視線にさらされて、マトオでさえも一瞬怯んでしまう。
 「お帰り、遅かったな」
 「怒っているの?あの人のこと」
 マトオがわざとらしく、甘い声を出してみせる。瞬間、ユッカの視線が強くなったが、それもすぐに冷めた。
 「いつものことだ。いつも……」
 「ユッカが本気になると邪魔をする」
 鞄も置かないまま、先回りしてマトオが言う。
 「もういい、怒っても無駄だと分かっているから」
 溜息をついて、ユッカはマトオの方に手を伸ばす。
 その手を掴んで、マトオはユッカの頬に押し当てた。
 「あの人は婚約をしているよ」
 「知っている。指にあとがある。でも、諦めた理由はそれじゃあない」
 「うん、ユッカは、そういうことで判断しない」
 「くだらない」
 隣の部屋には、スイがいるはずだが、静かだった。
 「さっき、君を待っている間に」
 「なに?」
 「ミノト兄さんの声を聞いたような気がした」
 「ユッカは、ミノト兄さんに一番本気だった。あのとき僕は、邪魔しなかったはずだよ。なのに……」
 「分かっているよ」
 目を閉じると、月が出ていた。
 冷たくてざらざらした月だった。
 ゆっくりと、傾いていく。


 信じない。
 愛して。




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