少年円舞曲(ワルツ)


 その人の背中を見た。


 「ここの雰囲気、すごくいーね。スイ兄さんとユッカがここを受けるんだったら、僕もここにするよ?」
 弟のマトオが、きっちりと詰めた襟の首もとを引っ掻きながら、笑って言う。
 来年高校を受験するスイが、従兄弟のユッカと、それから、どうしても一緒に行きたいと言ったマトオと共に近くの高校を見学に来たのは、秋だった。
 「マトオ。ちょっとは大人しくしていろよ」
 ユッカに叱られ、絡めた腕を振りほどかれても、マトオは、ぺろりと舌を出すばかりである。
 放課後の騒々しい雰囲気の中で、妙に浮いた三人組に、学生達はちらちら振り返っていく。
 中には、マトオの無邪気な様子に、これをユッカに言わせると、猫をかぶっているのだそうだが、優しく微笑んでいく学生もいた。
 スイは、どんどん前を行く二人を追いかけながら、ずっと大人しいままだった。
 元来、スイは大人しい性格である。人に慕われやすく、控えめだが、責任感がある。
 だから、どうしてもユッカやマトオのようなものにはなれない、はずだった。
 (ミノト兄さんもそうだった。ユッカをとても大切にしていたのに、そんな素振りは一切見せなかった。それでも兄さんとユッカは、ああいうことになった。どうして兄さんはあのとき、生きようとしなかったのだろう。)
 「スイ」
 「スイ兄さん」
 気付けば、前を歩いていたはずの二人が、不思議そうな目でスイを見ていた。
 「何ぼーっとしている」
 ユッカが、スイの前髪を引っ張りながら言う。
 「あー、やめ、コンタクトずれるって」
 ぱちぱちと瞬きして、調整する。
 視力が戻った瞬間に、その人の背中を見た。


 する、と伸びた背筋はまっすぐ。真っ白の、白衣の背中だった。背中しか見ていない。
 それなのに何故か。惹かれた。
 「あの人、綺麗な人」
 マトオが、スイの思考を破り、白衣の人に近づいていった学生を指さす。
 確かに甘い感じの、どちらかと言えばマトオに近い感じの人だった。
 スイは理由もなく、その二人の会話を聞きたかった。
 「辰巳、元気?」
 学生が親しく、その人に話しかけるのを見て、スイは妙にそわそわし始める。
 「学校では、先生、って言っただろーが」
 「せんせっ」
 「阿呆」
 会話の途中で、ちらりと見えた。多分、辰巳先生の横顔には、細身の銀縁眼鏡がかかっていた。
 突然、ぱっと駆け出したスイを見て、驚いたのはユッカとマトオだった。
 驚きもする。
 スイがいつになく、ぼんやりとしていると思えば、いきなり知らない先生に向かって駆け寄ったのだから。
 「あの……っ」
 正気に戻ったときには、スイは、その人の白衣の背中を右手で強く掴んでいた。
 何やらすがるような、というか、妙な配置。
 「ね、ユッカ。あれってスイ兄さん、何してるの?」
 「青春じゃあないか」
 びっくりしているはずで、落ち着いている二人である。
 「あの、学校見学に来たんですけど」
 焦ったように言葉を紡ぐスイに、辰巳先生が振り返る。
 「何?迷ったのか」
 「いえ、あの」
 口ごもるスイと先生との間に、学生が割り込んできた。
 「ちゃうのんや、せんせ。この子はせんせのフェロモンに当てられたんや。そうやろ?」
 にこ、とスイに向かって微笑んでみせる。これは化学の胡堂辰巳先生や、と言ってから、
 「俺、このセンセの従弟で、胡堂司っていうんやけど、忠告しといたるわ。こんなやつにスキ見せたら、頭からぱっくり喰われるで。気い付けときぃ」
 呆気にとられて固まるスイの目の前で、辰巳先生が、司に文句を言っている。しかし、司は全く怯まない。
 にぃ、と笑って見せた。
 「でもこの子、せんせの好みにクリーンヒット、やろ?ん?」
 司がけらけら笑う。
 友人であろう、背の高い学生から呼ばれて去ってしまうまで、ずっとこんな調子だった。
 司が去って静かになったあと、やっと辰巳先生がこちらを見た。溜息をつく。
 「すまないな、あいつは年中ハイなんだ。えーと」
 「スイ、です」
 「すまなかったな、スイ。あいつは口から生まれてきたような奴だから気にするな。うるさかっただろう?」
 眼鏡の奥で、優しく笑っているはずの瞳が、妙に不敵に輝いて見えたのは、彼の特性なのだろうか。
 「この学校を受けるのか」
 ぐっと顔を近づけられ、スイは一歩後ろに下がる。
 なんとか。何故か恐かった。
 「はい、あの、先生……」
 先生のことを、――ても良いですか。
 「頑張って、来いよ」
 言いかけるスイをさえぎって、くしゃりと頭を撫でると、辰巳先生は背中を向けて去っていった。
 かちゃ、と眼鏡の音がする、白衣の背中だった。


 「スイ兄さん、飲む?」
 家に帰ってぼんやりしているスイの前に、マトオの手がラムネの瓶を握って差し出された。
 よく冷えているのだろう、たくさんの結露がマトオの手を濡らしている。
 「飲む」
 受け取った瓶は、冷たすぎて、スイはそれを飲むこともせずに、手のひらで包み込んだ。
 「兄さん、変だよ。どうしたの?」
 その手をさらに包んで、マトオが、スイの膝に乗り上げてくる。こつ、と膝頭が当たった。
 「って聞かなくても分かるけどね。あの人?」
 「うん」
 「格好いい人だったよね」
 こくん、と頷いたスイの頭を、マトオが支える。そしてそのままスイの首に腕を回した。
 「こういうことをしてても、嫉妬してくれないの、ねえユッカ?」
 マトオが、それまでずっと黙って英語の本を読んでいたユッカの方を見る。
 「するわけがないだろう」
 本から顔を上げることなく、ユッカは素っ気なく言った。それでも応えるだけましな方だと、スイは思ったが。
 「さみしい。スイ兄さん、なぐさめて」
 元は自分の話ではなかっただろうか、と思うが。
 よしよし、とマトオの頭を撫でてみた。
 「ねえ、こういうとき、マトオならどぅする?」
 不意に思いつく、しかし、マトオはすでに寝惚けつつある。う
 にゃ、と一声鳴いて、なーに?と妙な返事を返した。
 「人を好きになったらってこと?」
 「そうそう」
 んー、とマトオが笑う。
 「まずね、僕の場合は全身全霊かけて落とすよ。それだけの自信はあるからね。ユッカの場合も、大抵、そんな感じ。もっとも、一部例外もあるようだけど♪」
 ユッカが一瞬、強く睨むがマトオは気にしない。
 「ミノト兄さんは、自分からは言えないタイプだったね。これが身内のパターン、だけど?」
 「参考にと思っただけだよ、自分のやり方がきっとあるはずなんだ」
 多分。多分。自信を持てない。


 雨が降る、嫌な雨だった。今日は傘を持っていない。
 スイは、激しい雨に、髪も制服の肩も濡らされながら帰路を急いでいた。
 生徒会のせいで遅くなった。
 先に帰ったマトオやユッカは、濡れずにすんだだろう。
 早く帰りたかった。
 しかし、雨は、実は嫌いではないのだ。
 あの人も、雨の匂いがした気がする、と今更になって思う。
 何故か朝の雨の匂い。
 雨の匂いが近づいてくる。
 「スイ、だったか。覚えているか」
 忘れるはずもない、声だった。
 スイが殊更ゆっくりと振り返ると、横付けにされた旧型フェアレディの窓から、辰巳先生が笑っていた。
 こういう偶然はひどい。
 「乗るか」
 不敵に微笑まれて、スイはどうしていいのか分からない。助手席にホープの箱が転がっていた。
 「そんなこと……」
 「嫌か」
 「いいえ」
 かなうはずもなく。
 居心地がいいのか悪いのかも分からないシートの上で、スイは緊張していた。車が動き出す。
 「あの、僕の家は、この通りを」


 「誰が送っていくなんて言った?そこ、タオルあるだろう、ちゃんと拭かないと風邪を引く」
 こういう人だと、分かっていたのに。
 「今なら、まだ外に出ることを許可しよう」
 きりきりと、肩が痛い。
 視線がこんなに痛いものだなんて知らなかった。
 「いいえ、このままで結構です」
 途端に、辰巳先生が吹き出す。
 ガキだなぁ、と口の中で呟いている。
 「先生」
 「なんだ?」
 「どうして僕を乗せたんですか、同情ですか、僕の気持ちに対しての。それなら僕は……」
 ドアに手をかけ、しかし多分、血の由縁だろう、うつむくことをせず、ぎりりと見上げた。
 その目の強さに、辰巳先生は、一瞬止まったが。
 「いや、さっきのは冗談だ」
 真顔になると、先生の視線は強すぎる。
 「じゃあ、どうして」
 スイは、それでもまだドアから手を離せない。
 「気に入ったから」
 「嘘つかないで下さい」
 予想していた答えだった。
 「ああ、実を言うとあまり自信がない。子供は嫌いなんだ」
 「それも、嘘ですね。酷い人だ。秋は、傷つきやすい季節なのに」
 「最初から分かっていたんだろう?」
 スイは、ドアから手を離して、目の前の眼鏡に触れてみた。冷たくて、ずきずきした。
 「先生、眼鏡……」
 そっと外す。一瞬、先生の顔が渋くなる。
 「これがないと、全く見えないんだが。なにしろ〇.〇二五の世界だ。目の前の、顔も見えない。もう、運転もできないじゃないか」
 スイは、そこで初めて本当に笑いたくなった。
 「いいんです。見えなくていいから、先生」
 僕を。
 「先生」
 ハンドルを握る手が、止まる。
 「雨がやみませんね」


 泣かないでお願い。




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