atelier〜愛されたかった人たちに〜 命をかけて描いた絵がある。 まだ、誰にも見せていない。誰かに見せるつもりもない。 蓮見洋二郎。 記憶の中のその人を、僕は何度もまぶたの裏に思い浮かべた。 そうして、その映像をキャンパスに焼き付けたいがために筆をとった。 しなやかな黒い髪、触れると硬い。今でもその感触を覚えている。 息が熱かった。 手が、印象的だった。 節の目立つ、いわゆる男の手。 浮いた血管に触れてみたくて仕方がなかったあの頃、僕はあの手ばかり見つめていた。 愛されたかった。 愛されたくて仕方がなくて、それだけだった。 先生が、好きでした。 今日までは。 夏のアトリエには独特の匂いが立ちこもる。 空調を効かせているはずなのに、まだ厚い。蓮見も僕も、シャツを捲り上げて作業をしていた。 絵筆を握りしめる指が、色んな色に染まっている。 赤、黄、青。そして、言葉で表現できない色たち。 それら全ての色が混じり合って、一枚の絵に吸い込まれていく。 「先生。そろそろ休憩しませんか」 油絵の具の独特の匂いを、初めて嗅いだ冬には頭がくらくらした。しかし、もう夏が来た。 僕がここで描いている絵は、まだ完成していない。 「もうそんな時間か」 「もう十二時過ぎですよ」 僕も蓮見も、絵を描くことに夢中になり出すと、他のことを全て忘れてしまう。 放っておけば、朝から飲まず食わずで、夜まで絵を描いていたりする。 蓮見の奥さんの千夜(ちや)がいなければ、僕たちは健康管理なんて絶対できなかったのだろう。 「千夜さんが、お弁当持ってきてくれています」 「そうか。あいつも忙しいのにな」 あんたたちなんか絵ばっかり描いてて、ほっとくと死んじゃうんでしょう。 そう言ったのは、千夜だ。 千夜は口は悪いが美人だ。 しかし、妙に優しいので、自分はモデルとして忙しく働きながらも、僕の分まで弁当を作ってくれていたりする。 「千夜さん、優しいですよね」 「たまにな」 一服のための煙草を、乱雑になったまま放置されている道具たちの中から、蓮見が探そうとしている。 気づいていないんだ。今日の煙草は、とっくに切れているということに。 「先生も、もっと優しくなればいいのに」 「俺は十分優しいと思うがな?」 見つからない煙草は諦めたのか、蓮見は手も洗わないまま弁当箱を開けている。 「どこが?」 「油絵なんか一枚も描いたこともないし、描かせてみれば小学生並みだったお前を、快く弟子入りさせたところとか」 「そうですね」 弁当はもう冷たくなっていた。 今のところ、蓮見の弟子は僕一人だけだった。 好きになったらその人が男だった。そんな言い訳はもうできない。 周りの皆と違うことには、小学校に入ってすぐに気づいた。 僕が好きなのは、男だ。 女が嫌いなわけじゃない。ただ恋愛対象として、僕は男しか好きになれなかったというだけのことだ。 蓮見のことを知ったのは、高校三年生の冬だった。 注目の若手画家、蓮見洋二郎。 新聞の片隅の、小さな記事だった。顔写真すらなく、ただ蓮見の描いた油彩画が載せられていた。 きれいな女だと思ったのだけ覚えている。 まっすぐに黒い髪を腰までたらして、見るもの全てを睨みつけていた。 攻撃的で、強くて、それなのに今にも壊れそうだった。 この絵を描いた人に会いたい。絵が描きたい。 こんなにも僕の心を突き刺すものがあるのなら。切実にそう思った。 父の病院を継ぐために、何の疑問もなく医学部を目指していた僕は、蓮見洋二郎のたった一枚の絵で将来の方向を変えてしまった。 絵が描きたい、その足で蓮見のアトリエを訪ね、そのまま弟子入りした。 もちろん、家族も教師も皆反対した。 誰もが皆、僕が病院を継ぐのだと思っていた。僕もそう思っていた。 年の離れた妹が一人、そんな状況で絵のために大学進学をやめるなど、言語道断だと言われた。 絵なんか大学に通いながらでも描けるだろうと、高校の友達にまで言われた。 その通りだとは、分かっていた。 それでも僕は、今を逃せば全て失うような覚悟で、蓮見の元に飛び込んでいた。 「先生のところで絵が描きたいんです」 「俺は、弟子入りなんて受け付けていない」 あっさり断られることは分かっていた。 初めて会った蓮見は、背の高い、冷たい雰囲気の大人だった。 何もかも悟ったような目が、明らかに僕を拒絶していた。 当たり前だ。いきなり飛び込んできた高校生なんて、誰も受け入れたりしない。 それでも僕には、引き下がるという選択肢はなかった。子どもだった。 「先生の絵が、好きなんです」 今思い出すと笑えるくらい、必死だった。必死すぎて、ほとんど記憶がない。 蓮見の話によると、僕はまるで飼い主を必死で探している子犬のようだったらしい。 あんまりな表現だと思った。でも、きっとそうだったんだろう。 僕が覚えているのはただ、困ったような表情を浮かべて煙草をもみ消した、その瞬間の蓮見のことだけだ。 「名前は?」 「清(せい)。二条、清です」 「よくここまで下手くそな絵が描けるよな、お前は」 「しょうがないじゃないですか。絵描くのなんか小学校以来…」 蓮見の言うことは、いちいちきつすぎる。 「これじゃあモデルになった千夜が可哀想だ。せっかくの美人なのに」 「そこまで言わなくてもいいじゃないですか」 昼食後、先に絵に向かいだした僕を後ろからのぞき込んで、蓮見が言うのは文句ばかりだ。 師匠として、僕を指導するわけでも何でもない。 ただ毎日ここに通ってくる僕に、ここにいて絵を描くことを赦しているだけだ。 「まあ、初めよりはましになったかもな。どうにか、見ても目が痛くないようになった」 蓮見が描くのは、主に人物画だった。風景画や抽象画は、ほとんど描かない。 人間の持つ力が好きなのだと言っていた。 「僕の絵を、見てくれているんですね」 「暇つぶしだ」 モデルたちが自分のことを確認するために、このアトリエには大きな鏡が置かれている。 今はそこに、蓮見の背中が映っていた。 広い背中だった。何故か、背中まで絵の具で汚れている。 「何を見てるんだ?」 「先生の背中」 鏡をじっと見ていた僕を、不思議に思ったらしい。同じように振り返って鏡を見ている。 「見て面白いか」 「面白い」 今は、二人が並んで映っていた。この絵、切り取れたら。 「清。お前、細っこいな。ちゃんと喰ってるか」 「先生みたいに、強くないんです」 顔まで絵の具に汚れた二人を、僕はただ見ていた。 蓮見の描く絵が好きだった。彼が切り取る、人間の素顔。 切ない目がまっすぐで、今にも壊れそうな女の絵があった。 遠くを見つめながら何を考えているのか分からない、今にも壊れそうな男の絵があった。 中でも、僕が一番好きなのは、最初に新聞で見た千夜の絵だった。 僕はそれに憧れて、絵筆をとった。 それだけのはずだった。 「写真は、その一瞬だけどな、絵は違うんだ。その瞬間に完成したりしない。描いていくうちに、少しずつモデルのことを映し出していくんだ」 「先生は、描くの遅い方なんですか」 「他の奴に比べれば、遅いかもな」 蓮見の描く絵が好きで、蓮見のことが好きだった。 初めはなかったはずの気持ちが、どこかで生まれてだんだんと育っていく。 不可抗力だ。 蓮見の描く絵を好きになることが、蓮見を好きになることだなんて思いもしなかった。 そう思いこんで、ずっと目をつぶっていた。 一筆一筆、色を重ねて命を吹き込んでいく。その魔法のような手が、欲しかった。 それだけだったのに。 「先生は丁寧に描くから」 「誰だってそうだろう?」 人を好きになるのは、苦手だ。 考えなくてはいけないこと、しなくてはならないことが他にあるのに、その人のことだけが全てになってしまう。 子どものような恋愛ばかりしていた。 大人になれば、変われるんだろうか。 千夜はきれいだった。 年齢は、分からない。聞いたこともない。 三十六の蓮見と同じくらいには、見えない。むしろ十代くらいに見える。 蓮見が煙草を買いに外出したときに、千夜がアトリエにやってきた。 「清、一人?」 「先生は煙草を買いに行かれました」 「そう。私の絵、どう?もうすぐ仕上げでしょう」 女にしては低い声だと思う。 千夜は、まず蓮見の絵を、それから僕の絵を順にのぞき込んでいく。そのしぐさが、蓮見に似ていた。 夫婦だから、似ていくんだろうか。 「下手くそね。やっぱ清、才能ないんじゃない?」 言うことまで、そっくりだった。 「でも、嫌いじゃないわ」 最近は雑誌などのモデルもやっているらしい。蓮見に愛されている千夜。 またそんなことばかり考えてしまう。 くだらない。人のものばっかり好きになる子どもみたいだ。 「洋二郎の絵と、似ているわ」 奥のソファに足を組んで座り、千夜がつぶやいた。 「どこがですか。先生の絵になんて、かないませんよ」 まっすぐな黒い髪。均整のとれた身体。 きっとこういうものが欲しくてたまらない人たちがたくさんいる。 「才能の有無じゃないの」 真っ赤な爪で、真っ赤な唇に触れていた。 「何だか何かに飢えている子どもみたいなところが、そっくり」 なんて顔で笑うんだろう。 天使のようだった。 「飢えてなんか、いません」 僕は、普通に喋ることだけでも精一杯だっていうのに。 「誰だって、人のものは羨ましくなるものね」 千夜にも、蓮見にも僕は絶対かなわない。 「ねえ、清。そうでしょう?」 洋二郎が好きなんでしょう? そう言いながら、千夜は笑っていた。 「いいこと教えてあげようか。洋二郎が弟子なんて取ったの、清が初めてなんだよ?」 「おかえりなさい」 蓮見は、いつも自分で煙草を買いに行く。 僕がいるのだから、僕に頼めば簡単なのだ。 しかし、その日の気分に合った銘柄じゃないと吸わないと言い張る。 買いに行って、そのとき吸いたいと思った銘柄を買ってくるのだ。 こればかりは、千夜にさえ頼めないらしい。 「先生。煙草やめた方がいいですよ」 「健康管理をしろって?医者の息子」 言う側から、さっさとホープの箱を開けてライタを探している。 「僕はただ、先生の身体の心配を……」 「心配しなくても、俺は後五年は生きるぞ?」 煙草に火をつける瞬間の蓮見を何度、目で追ったことだろう。 「後五年も生きるんですね」 長いな。それまでに、何か一つでも変われるだろうか。 煙草の匂いが、油絵の具の匂いに勝っていく。 「千夜が来てたのか」 「ええ。もうお仕事に戻られましたけど」 千夜が来ると、部屋に香水の匂いが薄く残る。 濃い香りじゃない。気づかない人は、気づかない程度の匂いだ。 甘い。ベビー・ドール? 「お前に会いに来たんだろうな」 そんなこと、あるわけない。 「先生に会いに来られたんですよ」 「千夜は、お前を気に入っていると言っていた」 「そうですか」 そういうのを、残酷だと言う。 そうして、こんな風にしか物を考えられなくなる方が、馬鹿だ。 馬鹿でいい。 「先生の絵が描きたい」 それは突然だった。 目の前で、蓮見を見ながら蓮見の絵が描きたい。 本当は、もう描いている。家で、少しずつ描いている。 でもそれは、あくまで僕の中の蓮見の絵だ。 「俺の絵?」 今ここで、ちゃんと息をしている蓮見の絵が描きたい。 「先生をモデルに、絵が描きたいんです」 ちょうど蓮見にさえぎられて、鏡は見えない。 見えていたら、きっとこんなことは言えなかっただろう。 自分の表情に、怖じ気づいて。 「駄目ですか」 蓮見が、あのときと同じ、困ったような表情を浮かべた。 どうして困るんだろう。 そう思いながら、本当は困ってくれたことに安心している。 「駄目だ」 初めて蓮見のアトリエに行ったとき、蓮見は僕を置いてすぐに出て行った。 勝手に絵でも見ていろ。俺は忙しいんだ。 そう言って、煙草を買いに行っていたらしい。 僕は、そのときはただただ蓮見の絵に夢中で、無造作に並べられた蓮見の油彩画に次から次へと見入っていた。 ここにいられるだけで、嬉しかった。 絵が描きたい。 それだけで周囲の反対を押し切って飛び出してきた高校生を、あっさり受け入れてくれた蓮見に感謝していた。 明日から、毎日通って絵を描こう。 それだけで満たされていた。 そこに、違う気持ちまで持ち込んだのは僕自身に他ならない。 「煙草、吸うか」 「僕は吸いません」 帰ってきた蓮見の、戸惑ったような顔。 僕がここにいることが不思議そうで、しかしすぐに思い出したようだった。 「吸ってもいいか」 「もちろんです。先生のアトリエなんだから」 「そうだな」 なんだってあのとき、あんな風に嬉しそうに笑ったんですか。 「先生が好きなんです」 絵だけじゃない。 「先生のことが、好きなんです」 ごめんなさい。 またそんな、困ったような顔をさせてしまって。 蓮見は、本当はこんな表情を浮かべるような人間じゃないってことは分かっている。 「俺は、」 「ごめんなさい」 「お前が女だったら、」 この人は分かっていないだけだ。 そういう台詞が、どれだけ僕のような人間の胸に突き刺さるか、分かっていないだけだ。 「女だったら、」 いいわけないでしょう。 蓮見には、千夜がいる。 「すまない」 苦しすぎる謝罪を受けて、衝動的に蓮見に口づけていた。 涙さえ、流れない。 「清、」 首に腕を回し、髪に触れた。硬い髪だった。 抵抗されないことが、拒まれないことが、こんなに苦しいことだなんて知らなかった。 なんでこんなに息が熱いんだろう。 「忘れてください」 忘れてください。 「清?」 そんな目で、見ないで欲しい。 可哀想だなんて、思わないで欲しい。 「今だけだから、今日だけだから」 「そうか」 「明日からはまた、ただの弟子です。ただのあなたの弟子の、清だから」 今だけはここで溺れてもいいですか。 「ただいま」 いつからだろう。 蓮見のアトリエから戻って家のドアを開ける瞬間が、こんなに安心するものになったのは。 「おかえりなさい。ご飯は?」 すぐに居間から母が出てくる。 最近では、両親も僕の進学は諦めたらしい。 毎日アトリエに通って、時々、家庭教師のバイトをしているだけの僕に、もう何も言わない。 家に帰ってもずっと絵を描いている僕に、そんなに好きならやるだけやりなさいと言ってくれた。 「いらない。向こうで食べてきたから」 まだ、笑っていられる。 「そう」 「ありがとう。今日は疲れたから、もう寝るよ」 台所から、夕食の匂いがしていた。 焼き魚だろうか。 「受験、しようかな」 向こうで食べてなんかいない。 「何か言った?」 「何でもないよ」 八時。今日は星空だった。 部屋に戻ると、僕の絵があった。 毎日帰ってきてから少しずつ描いて、昨日やっと完成した絵だ。 蓮見が、あの困ったような表情じゃない、本来の強すぎる目でこちらを見ていた。 絵を描いているときの蓮見の目だ。 あのアトリエとは違う、でも油絵の具の匂いがした。 蓮見の匂いだ。 「先生、」 どうしようもないじゃないか。 絵に触れると、まだ乾いていなくて指に絵の具がついた。 好きでした。愛されたかった。 夏なのに、ひどく寒い。 それでも明日からは忘れられる。 明日からは忘れようと、そう思うしかなかった。 |