世界はティラミスでできている 梨川静里(なしかわ しずり)の行動を予測することは不可能だ。 ハイゼンベルグが提唱した『不確定性原理』がそのまま適用できそうな、あるいはひねくれた推理小説のようなもの。 確率的にしか記述できない。自分なりに推理を試みても意外な結果に着地する。 葛木真仁(くずき まひと)は彼女の存在をそのように分析し、定義していた。 今日の彼女もそのカテゴリーを十分に満たしていると言えよう。 「ティラミスつくってあげるね」 一瞬、耳を疑った。 カレーとゆで卵くらいしか料理のレパートリーを持たない静里が、突然にして『ティラミス』なるものをつくる。 葛木の記憶が正しければ、『ティラミス』とは一昔前に流行ったケーキのはずである。 基本という概念がすっとばされているように感じられるのは、葛木の気のせいというわけではあるまい。 …もっと手近なものからつくれよな。 市販のルーを使ったカレーでさえ、まともにできないのに。 それにしてもなぜティラミス…? 葛木の脳内ではいつもにも増して、混迷の大渦が逆巻いていた。 「んー、カリスマポルポチーズ?いや、マダガスカルポルカチーズだったっけ?ああ、マサカリポイットチーズだ!」 ちなみにマスカルポーネチーズ。 静里は突如、葛木にお使いを命じた。 そのチーズ買ってきてね、と。 実際はもっと有無を言わせぬ口調であったが、それを字面だけで伝えることはできない。 目が訴える威圧感というものであろうか。まさに蛇に睨まれた蛙状態。 とにかく静里に逆らったり、言い訳を展開したりすることは徒労に終わるだけだと、長年の経験から認識済みである。 「行ってきまーす」 『尻にしかれている男』の模範的なサンプルというわけだ。 * マスカルポーネチーズは葛木の住んでいる町内では、取り扱っている店舗が存在しなかった。 そこで、しかたなく隣の幻緑(げんりょく)市にある某デパートの地下食品売り場まで行って購入した。 千三百円…。 普通のチーズが五パックも買えてしまう。 これが静里の手によって、口に入れることがおよそ不可能であろう物質に変換されると思うと嘆かわしくなる(葛木はそれを口に入れ、かつ咀嚼し、飲み込まなければならないが)。 そもそも静里がなぜティラミスをつくるなどと言い出したか。 帰ってからその理由を聞いた葛木は、半ば呆れるとともに脱力感伴う溜め息をはき出すしかなかった。 「あのね、私が日参してるホームページがあってさ、その中でティラミス同盟会員ってのを募集してたわけ。掲示板に『ティラミス!』って書いた時点であなたもティラミス同盟の一員です!なんて書いてあったからさあ、もう即カキコしてメンバーに加わってきたの」 支離滅裂かつ突飛な話すぎて、葛木には理解できなかった。 なぜ考えもなしに、そんな怪しげな集団に加わってしまうのだろうか? 静里の思考を真剣に理解しようとすると、常人の脳は破綻をきたしてしまう。 「そのホムペは主に短歌とか小説を扱ってるところなのにさあ、なぜか『ティラミス!』なのよ。何の前振りもなくいきなり『ティラミス!』、どっから出てきたのよこらっ!てつっこみたくなるんだけど、そのわけの分からないノリが気に入っちゃったの」 なるほど静里はそのホームページの管理人に、自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのであろう。 類は友を呼ぶとはこのことだ。 「それでね、ティラミスに関係ある活動をすることでポイント(ティラミス)がどんどんたまって、百ティラミスたまると爆裂ティラミスとかティラミス神になれちゃうの!」 …はあ? 「ああ、そのティラミス同盟の会員には役職ってのがあってね、ポイントがたまるとどんどん昇進していくの。今の私の役職は『噂のセクシーティラミス』だけど、あと十ティラミスで『Yeah!めっちゃティラミス』に昇進できるの。ああ、百ティラミスでは何になれるのかしら…じゅるり」 葛木もちらっと考える。 『ティラミス片思い』あるいは『ティラミス涙色』とか。…最高位ぽくないな。 『抱いてHOLD ON ティラミス!』…ちょっと古い? あ、『世界に一つだけのティラミス!』ってよくねえ? 五秒後、一瞬真面目に悩んだことを後悔した。 * このあと葛木は生き地獄というものを味わうことになった。 まず葛木の留守中に作成されていたスポンジが焼き上がる。 レンジの扉が開かれると部屋には硫化水素のような、俗に言う卵が腐ったような臭いが立ち込めた。 背中に悪寒、額には冷や汗があふれ出していた。 ごくり…。 引き続き、マスカルポーネチーズや粉砂糖などがボールに練り込まれた。 あまりにも馴れない手つき。中身がピチピチ飛び出しまくり。とてもかき混ぜられているとは思えない。 レシピに書いてあるお酒がないからって、焼酎『鬼殺し』入れてるし…。しかも大量に。 ごくり…。 スポンジの上になんのためらいもなく、ボールの中身がぶちまけられた。 その上にココアパウダーを大量にぶっかけている。 ごくり…。 直視し難い。葛木は耐えきれなくなって、目を背けた。 調理過程を見ていると、この後に受ける肉体的・精神的ダメージがさらに加算されてしまうことは間違いない。 ぐしゃぐしゃ、ねちゃねちゃという不快な音は、その後十分ほど鳴り響いた。 そして…。 「葛木さん、お待たせー!」 ごくり…。 …できてしまった…か。 振り向くのには勇気がいった。 これまでの人生の中で、最大級の勇気が。 神よ、我に力を! 葛木は心の中で祈り、勢いよく体を翻した。 振り向いた先にあったもの、それは…。 なんじゃ、これ? 目の前に差し出された物体が、何であるかを判断することはできなかった。 あえて形容するなら『茶色いカビが生えた崩れたプリン』あるいは『アメーバが放射能の影響により巨大化した姿』、そういったところであろう。 「これを食べろと?」 静里は満面の笑みで頷く。 「多分、おいしいはずだよ。だいたいレシピ通りにつくったし」 どこが?それに、やっぱり味見してないのかよ…。 「食べさせてあげよっか?アーン」 静里は戸惑う葛木を尻目に、『カビプリン』の一角をスプーンですくいとり、彼の口元まで運んできた。 「アーン」 普通なら微笑ましいはずのこの光景も、葛木にとっては拷問さながら。 がたがたと震えながら開いた彼の口腔内に、容赦なくそれは放り込まれた。 「とぼはぁ!」 『鬼殺し』の味しかしねえ! マスカルポーネチーズ意味なし! やっぱりね…。 酒に弱い葛木の意識は三口目で途絶えた。 * 今回の事件(?)で葛木が得られた教訓は二つある。 まず一つ、例え恋人が愛情を込めてつくってくれたものでも、食べられないものは食べられないとはっきり言う勇気を身につけなくては、命にかかわってしまうということ。 そして、こんな普通では得られそうにない教訓は、この静里とつきあっている限り、半永久的に嫌でも得られてしまうだろう、ということ。 得られることが全くないつきあいなら、葛木は静里との関わりをとうの昔に放棄していただろう。 今回のようなくだらないにもほどがあることから、ときには葛木の人生観に転機をもたらしてくれるようなことまで、静里はいろいろなものを葛木に与えてくれる。 葛木もまた静里にとって、自分が同様の存在であることを願い、日々それに漸近できるようにと努力しているつもりである。 葛木はあのあと自分のパソコンから、静里が話していた例のホームページへのアクセスを試みた。 なるほど、確かに静里好みのコンテンツである。中でも短歌の技量には目をみはるものがあった。 つれづれに掲示板や管理人の作品などを見ていた葛木は、ふとマウスを動かす手を止める。 『ティラミス』という言葉の意味がいくつか書いてあったのだ。 その中の『私をハイにして』という解釈を目にして、葛木は一瞬考えた。 自分はいつも静里に対して、『ティラミス』という言葉を投げかけているようなものだ、と。 もちろん、静里も葛木に対して同様だ。 彼女の笑顔、しぐさ、言葉のひとつひとつが、葛木の『ティラミス!』という呼びかけに応えてくれているのだ。 そう気づいたことに、七ティラミス! 「葛木さーん、遊びにきたよーん!」 ふいに、玄関から馴れ親しんだ声。 静里の『ティラミス!』 「どうぞ」 葛木の『ティラミス!』 ふたりの『ティラミス』には、賞味期限なんてない。 注、タイトルは舞城王太郎著『世界は密室でできている』のパロディです。あしからず。 あと、フィクションです。 |