atelier〜この指をこぼれ落ちたもの こっちを強く射た、形のいい目を少しずつ描いている。 赤いソファに寝そべり、ただ視線だけで語ろうとする清の、一瞬の絵だった。 これ以上、気持ちを込めた絵などもう描けないかもしれない。 あのときの清の一瞬。もともと美しい造作の、一瞬を切り取りたかった。 「先生、先生の絵の中の僕は強いんですね」 「そうか?」 「いつもの、先生の絵じゃないみたいだ」 多分、生まれてすぐなのだろう。 あの日以来、清は以前にも増してよく笑うようになった。 夏と秋の境目を正確に見分けられるほど暇じゃなかった。 あの夏の日。ひどく暑かった。 清が、今日だけだと言って崩れ落ちたあの日からもう二ヶ月がたっていた。 「忘れてください」 忘れられるわけがなかった。 戸惑ったままの俺を残して、清はやけにあっさりと帰っていった。 「おやすみなさい先生。また明日」 一点の曇りもない笑顔だった。 ドアの向こうに月が出ていた。 ノブに手をかけて、一瞬振り返って。 そうして笑っていた清がきれいだったことを、今でもはっきりと覚えている。 また明日。 何でもないことのように。何もなかったかのように清は笑っていた。 なんて笑い方をするんだろう。 それはもう、子どもの笑い方ではなかった。 何も言えない俺に何も言わず、ただ優しく笑ってみせた。 真夏の夜特有の、熱い空気を喉に流し込んで、それだけだった。 きっと何か大切なものが終わったのだろう。 次の日の朝、いつもと変わらないままの様子で清が顔を出したときには、安堵するとともに、何かやりきれないしこりのようなものを感じていた。 清の笑い方を変えたのは、誰かではなかった。 「清、昨日、」 「昨日、何かありましたか」 清は、ごく普通に聞き返してきた。そんな笑顔で。笑っているつもりで。 他人よりも、人間の痛みは多く描き出してきたつもりだった。 清は、確かによく笑うようになった。 あの、初めの頃の子犬のような目をしなくなった。 「清、そっちの筆取ってくれるか」 「これですか」 「ありがとう」 最近ずいぶんと夜が冷えるようになってきた。 「そろそろ片づけるか」 「ええ。コーヒー入れてきましょうか」 「頼む」 ふと、清の背中が目に入る。 やせていた。 もともと細い方だったのが、ここ最近でさらにやせた。 病的な感じではない。ただ、ずいぶんと線が細くなった。 清、どんどんきれいになっていくね。いつか私、追い越されるかな。 昨日の夜、千夜がそう言って笑っていた。 なんか色っぽくなっちゃってさ。好きな人でもできたのかな。 洋二郎、もう捨てられちゃったの? 「先生?」 気が付くと、目の前に清が立っていた。 湯気の立つカップを二つ手に持っている。 「ああ、すまない」 「考え事ですか。ぼーっとして」 先生らしくないんですね。 そう聞こえた。 「最近寒くなってきましたね。独り寝が寂しいや」 「そんなことばかり言うなよ」 さなぎが殻を破って孵化するように、清はここ二ヶ月で一気に大人びた。 幼いばかりだった表情も見せなくなり、代わりに大人の笑い方をするようになった。 「寒くなると、人恋しくなりませんか」 言うことも大人びて、しかし甘かった。 苦い。 「ならないな」 「僕はなるんですよ」 誰だって成長するのだということは分かっている。 しかし、これが成長なのかどうかは分からなかった。 分からないことが多すぎる。 だから、一人で分かったような表情を浮かべるようになった清に、いらつく。 「子どもが生意気を言うな」 「先生、子どもだから生意気を言うんですよ」 気が付くと、清を目で追うようになっていた。そうして安堵する。 清は、もう昔みたいに自分を見つめていない。 昔の清なら、きっとすぐに目があったのだろう。 「清、髪が伸びたな」 「それ、千夜さんにも言われました。切りに行った方がいいのかな」 千夜。また千夜だ。 清の話には、よく千夜が出てくるようになった。 「それくらいなら、まだいいんじゃないか」 「千夜さんは短い方が可愛いって。男に可愛いなんて言わないで欲しいですよね」 くす、と苦笑してみせるその脳裏で、誰のことを考えているのだろう。 「先生?」 「清、」 また絵の具をつけたまま頬をぬぐったのだろう。 赤い線が、清の頬を走っていた。 「やだな、真剣な顔して」 先生。今から告白なんて、しないですよね? 「先生?」 「なんでもない」 そうだ何もかも冗談で終わらせてそれが大人だと思っていた。 「そんな笑って。何が嬉しいんですか」 「なんでもない」 「今日の先生、変ですよ」 なんでもない。これは、なんでもない。 「清の絵を描いてもいいか」 「駄目ですよ」 即答だった。 今までの笑顔が、即座に消える。 「今更」 目をそらされて、視線を追いかけてもまた逃げられた。 「今更、僕のことを見るなんて遅すぎます」 「何が遅いんだ?俺はただお前の絵を、」 「嘘だ」 何が、嘘だというのだろう。 前髪が少し伸びているせいで、清の表情は分からない。 「僕は先生の絵のモデルじゃない」 「それはそうだが、」 「先生に、描かれたくなんかありません」 声だけが、妙にきっぱりとしている。 「どうしてだ?」 「先生が、そんな中途半端な気持ちで僕に興味を持つなんて、不愉快だ」 不愉快とまで言われたのに、それなりのショックも受けなかった。 「もっとも、ちゃんと興味を持たれても困りますけど」 また、清に笑みが戻る。皮肉な笑い方だった。 こんな風に笑わせたいんじゃない。 「千夜さんを悲しませるつもりはないんです」 また、だ。 また千夜が出てくる。 千夜、千夜。千夜がそこにいないのに、清は千夜の話ばかりする。 それがすべてであるように。 「千夜に、何の関係がある、」 無意識に、押し殺すような声になっていた。 「先生の奥さんを悲しませるなんて、もう僕は嫌なんです」 清が笑う。 違う。 「清?」 そこで俺は、清のしている大きな勘違いに気づいた。 「千夜は、俺の妹だぞ?」 「え、」 清の目が、これでもかとばかりに見開かれている。 もしかして、これだけ長い間一緒にいて本当に知らなかったのだろうか。 「でも、千夜さんは一言も妹だなんて言いませんでしたよ」 確かに言ってなかったような気もする。 「あいつは……」 「私の旦那をよろしくねって、」 それは多分、いや間違いなく千夜のいたずらだ。 「それ、俺が一緒にいるときに一度でも言ったか」 「そんなの覚えてません」 だろうと思う。 こういう、悪意があるのかないのか分からないいたずらに関しては千夜は天才的な能力を発揮する。 発揮されても困るのだが。 私の嘘くらい見抜けないでどうするの。 そう言って笑ってかわされれば、怒ることさえ難しくなる。 可哀想に、清はかなり動揺しているのか視線が定まっていない。 「そうか。でも、誤解が解けたのならいいじゃないか」 つい、手を伸ばしかけた。 「それは、」 手を伸ばしかけて、すぐに引っ込める。 目的は、ただ清の絵を描くことだけだ。 それ以上でも、それ以下でもない。 「ただ、清の絵が描きたいんだ」 「それが嘘だと言っているんです」 清の身体が、崩れ落ちるようにソファに沈み込む。 そのまま座り込んで笑い出した清に、何を言っていいのか分からない。 分からない。さっきから何も分からない。 「俺がお前の絵を描いて、何か支障があるか」 「そんなこと、どうだっていいんですよ」 ふいに、清はソファに寝ころんだ。 片手に頭をのせ、挑発的な目でこっちを見てくる。 「清?」 「駄目です。嫌なものは、嫌なんです」 唇からこぼれ落ちる言葉はひどく残酷だった。 ちり、と胸の奥が鳴る。むしろ焼けたのかもしれない。 「他に、好きな奴ができたのか」 なんてくだらない質問をしているのだろう。 案の定、清がくすくす笑い出した。 耳の奥が痛い。 「そんな難しいこと、先生。僕には分かりません」 もし人間をたぶらかして、すべてを喰らいつくす妖がいるとしたら、きっとこんな美しい顔で笑うのだろう。 きっとこんな無邪気な顔で、あどけない声で笑うのだろう。 「先生はずるいですよ」 「ずるい?」 「あなたは一度だって、自分の気持ちを言葉にしないんだ」 自分でも分からないのだ。 「どうしようかな」 清が目を細める。 「赦してあげようかな。先生、可哀想だし」 一度くらい、好きだって言ってくださいよ。 清が笑う。 それでも、言えなかった。 言いたくないのではなく、言えなかった。 「脱ぐのは嫌ですよ」 「脱げとは言っていないだろう」 そのままソファに居座った清の前へと、イーゼルを運んできた。 「どんなポーズが好みですか」 「そのままでいい」 準備のために動き回るのを、清にじっと見られている。 いつもなら自然に言うはずの「手伝ってくれ」も言う気が起きなかった。 ただ清のまっすぐな視線にいられていて、それなのに居心地は悪くなかった。 これだけモデルを描いていれば分かる。 人間が、言葉以上に目で語るというのは本当なのだ。 気弱そうな目、気丈にこちらを睨みつけてくる目、それらすべての持つ、どこかもろい部分を切り取ろうと今まで描いてきた。 清の目は今、弱いところなど一つもない。 言葉を発するのはもうやめたのだろう。 ただ視線にすべてを込めて、すべてを注いでくる。 目の端に、透明な薄い膜が浮かんでいた。 あとは、薄く開いた唇だけが少し湿っていた。 秋の、こんなに乾燥した部屋で、どうしてあそこだけ、あんな風にはかなく濡れていたんだろう。 すべての気持ちをくみ取ろうとなんかしなくても、分かっていた。 「やっぱり、清のところに行くんだね」 「何の話だ?突然」 清が帰ると、千夜が奥の部屋から出て来た。 今日は仕事が早く終わったのだろう。こんなに早く帰っているのは珍しい。 おかえり、と声をかけた途端にこれだった。 「分かってたよ、最初から」 甘い酒の匂いがした。 「酔っているのか」 「そんなにひどくは飲んでいないよ」 そう言いながらも、足取りが少し危うい。 「大丈夫か」 「これが大丈夫に見えるの?」 そのまま自分を支えるのをやめて倒れ込んでくる。 抱き留めると、襟の下に真っ赤な跡が残った。 千夜の、口紅の色だった。 「千夜?」 絵の具の赤とは違う、鮮やかな色だった。 胸元に、千夜の吐息がこぼれ落ちてくる。 「清の絵を描くんでしょう」 「ああ」 「いつかそうなるだろうと思っていた」 くぐもった声だけが聞こえる。 「千夜、なぜ清に嘘をついた?」 「なんとなくかなぁ」 千夜の身体がするりと離れた。 「おやすみなさい」 極上の笑顔で、千夜が笑う。 雑誌のモデルをするときの、職業的な笑いだった。 「清を離しちゃ駄目だよ」 そして私は捨ててねと、そう聞こえたのはどうしてだろう。 「清の絵が描けたら一番に見せてね」 千夜の口紅の色のような真っ赤なソファに沈んだ、挑発的な目の清の絵が完成したのは、秋の終わりのことだった。 |